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ソウル南山にあった「朝鮮神宮と京城神社」跡を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.55 (読む時間:約3分)

  • 2016.09.01

    上海の初印象 【上海の街角で 井上邦久】vol22 (読む時間:約4分半)


    • Whenever誌の江蘇版で連載が始まり、好評のうちに北京・天津・上海・広東版にも掲載され、30回のロングラン連載となっている『数字で学ぶ中国経済』を愛読されている方も多いことと思います。改めてそのタイトルを見ると「中国の達人が教える」「中国40年の変遷」というサブタイトルに挟まれていることに気付きました。連載執筆者の松本健三さんとは上海駐在の同年齢の仲間として知り合いました。1980年以前、北京の総公司か広州交易会でしか商談機会がなかった頃から、お互いが日中貿易業界に身を置いていたことが分かってから親密度が高まりました。松本さんは、9月号に「井上さんと私は1970年代から日中貿易に携わってきた最後の商社マンです」という一節を綴られているようです。
      「達人」から「最後の商社マン」と表現されるのは、何とも面映ゆいことで、畏れ入っております。こちらは松本さんと違って、数字にまるで弱く「達人」には程遠い存在です。ただ化石のような最後の商社マンかどうかは別にして、40年に渡る商社での業務を通じて、日中貿易の変遷を体験してきたことは事実です。今もまだ同じ商社に籍を置いているので、商社活動での回想に流れるのは控えます。ここでは商社に入る前、つまり国交正常化以前に体験した上海について素描を試み、松本さんへのアンサーソングに代えます。


      1971年の雪融けの季節、初めての上海へ。学生友好訪中団の仲間20名との団体旅行で、南昌から上海への列車移動でした。香港の羅湖から橋を一人一人渡り、深圳駅で入国審査を受けて以降一か月、すべて列車での移動でした。上海駅に到着する手前から鐘や太鼓が賑やかに鳴り響き、ホームは歓迎の横断幕を掲げる紅衛兵たちでぎっしり埋まり、まさに「熱烈歓迎」でした。駅のホームの賑やかさと対照的に、街はガラ~ンと静まり返り、外国人に開放されていた数少ないホテルの和平賓館も客が少なく、高い天井と暗い照明のせいもあって、ガラ~ンと静かでありました。時々、賑やかになるのは、革命歌を歌いながら「遊行」(行進と訳せば良いでしょうか)する隊伍が窓の外を通り過ぎる時くらいでした。
      夕食後の長い夜の時間を持て余して、本を探しにホテルの読書室に行きましたが、見つけたのは『中国画報』『北京周報』そして『毛沢東選集』全4巻でした。広州でも北京でも同じくこの三点セットだけを目にしていたので印象が鮮明であったわけでして、決して記憶の「達人」だからではありません。もちろん赤い表紙の小さな『毛沢東語録』だけは其処かしこに山積みされていました。現在、街の骨董屋で『毛沢東語録』を売っているのを見るたびに『中国画報』の表紙を飾った健康的な紅い頬をした女工さんや「毛語録」をかざして「遊行」していた紅衛兵たちは、還暦前後となった現在もまだ赤い頬をしているのだろうか、と詮無き想像をしてしまいます。


      外灘で黄浦江の向う側について尋ねると、「辺鄙な土地です」と言うだけの遠い存在で、浦東という名称を使わずに説明されたような気がしています。その逆に虹口の魯迅公園はとても近くに感じました。和平賓館から車の少ない路を飛ばし、途中の何か所に信号機があったか定かではありません。「中国では赤信号はGOなのかな?」という軽口を叩く同行者も居れば、「我々の外国からの来賓(外賓)の車が通る時は、信号を青に切り替えるのだ!」と、したり顔で言う分析好きな同行者も居ました。魯迅公園では立派な魯迅の墓を見て、サトウキビを齧った記憶しかありません。たしか、現在の魯迅記念館の前身の施設も閉鎖中だったと思います。当時、歴史論争・文学論争などは押しなべて政治論争になっていましたから、記念館や博物館の多くは閉鎖されていたのではないでしょうか?一方、静安寺近くに威容を誇っていた工業展覧館は開放されていました。中央に星の塔が聳えるソ連風の巨大な建築物は他を圧していました。1980年代になり上海出張を始めた頃に、中華料理店以外では数少ないレストランとして貴重な場所となり、ボルシチを食べに通った記憶があります。今では、その四方を摩天楼に囲まれて。クラシックな建物は街の底に侍り、見上げていた星の塔も高架道路から横に見えます。
      1970年代初頭の上海見学コースの定番は、馬陸人民公社だったようです。1972年の秋、北京での国交正常化交渉を終えたあと、周恩来首相の接遇で上海を訪れた田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官の一行も虹橋空港から馬陸人民公社を訪れています。このことについては、以前に「上海たより『馬陸』」に綴りましたので重複を避けます。その後、馬陸は葡萄の産地として有名になり、葡萄園観光としても人気があるようです。かつての馬陸人民公社の名残を探しに行っても見つからず、地下鉄の馬陸駅前にはマンションが林立しています。


      単独で街歩きもできず、定番の訪問先での交流会を通じてのみの上海初体験でしたが、訪れた他の都市との違いとして印象に残っていることがあります。一つは、上海から南京へ移動する際の上海駅のホーム、到着時と同じ型通りの鐘や太鼓が賑やかな中で、横断幕の陰に一人のふてくされた様子の女子紅衛兵を見つけました。列車が走りだした後で、仲間たちの話題は「孤立を恐れない」女子紅衛兵の存在に集中しました。分析好きの同行者は「疎外がないはずの社会主義社会での疎外」について講釈をしてくれました。印象に残ったもう一つは、その白けた素振りの女子紅衛兵の中山服のズボンに折り目が当たっていたことと、襟元に覗いた(或いは覗かせた)セーターのオレンジ色でした。このことは個人的な印象に留め、同行者たちには話さなかったと思います。(了)


    2016.08.22

    長春市で営業している「横浜正金銀行」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.54 (読む時間:約2分半)

  • 2016.08.16

    「范冰冰」と歩く煙台山 【蘇州たより 工藤和直】Vol.53 (読む時間:約3分半)

  • 2016.08.04

    韓国仁川にあった日本領事館と仁川神社 【蘇州たより 工藤和直】vol.52 (読む時間:約2分半)

  • 2016.07.25

    博物館 【上海の街角で 井上邦久】vol21 (読む時間:約3分半)


    •  短い春と秋の間の可愛げのない猛暑、熱が身体に籠ったら苦瓜(ゴーヤ)を食べなさいと上海オフィスの複数のスタッフから言われたことを思い出します。そんな夏によく足を運んだのは南京西路が昔の競馬場のコーナーに沿って湾曲したあたり、時計台が目印の建物でした。欧州人が設計して、租界地に住む外国人がメンバーの中心を占めていた上海レース倶楽部があった場所でして、そのよすがを欄干に馬の頭部を配した階段などに見つけられます。博物館や図書館が移設されたあとに、美術館として2012年末まで使用されていました。天井の高い石造りの室内は、静かで涼しく広々としていました。無料の絵画展を見る時間より、ミュージアムショップで有料の画集や記念品を探す時間が長く、更に最上階の5階のレストラン「K’s 5」(Kathleen’s 5)のテラスで人民公園の緑や浦東の高層ビルを眺める時間がもっと長かったです。2010年頃まではブランチ目当ての欧米系の客が目立つくらいで概ね空いていて、ドラマや映画の撮影を目にしたことも懐かしく感じます。


      美術館があった場所からほど近い上海博物館は「鼎」を模した重厚な建物として1996年に完成し、外灘に向かう高架道路からは左手にその威容が見えます。ただ、開館前の早朝から長蛇の行列ができるので炎天下の夏には不向きです。上海博物館は1952年の創設の後、現在の立派な建物に収まるまで移転を重ねており、1980年初頭に古風な建物に入っていた頃によく訪ねました。日系企業のオフィスが上海大廈や聯誼大廈にあった頃で、和平賓館にも宿泊できた、のんびりした時代のことです。アテンドや商談への登板間隔もゆったりしていて、空いた時間の街歩きに博物館は手ごろな場所でした。来館者も少なく、展示品も限定的で、たゆとう時間を眺めるような空間でした。或る日、ずいぶん展示がすっきりと整理されていて、既視感覚に陥ったことがあります。しばらくして、大阪中之島の東洋陶磁美術館の展示との共通点が多いことに気付きました。たぶん、かなりの高い確率で両館の提携が順調になされていたことの証明でしょう。大阪と上海が友好都市であり、友好都市ということに意義と効果があったとされる時代でもありました。


      当時、中国の工場見学に行くと工場長から専門性に乏しい新米商社員も含めた日本からの訪問者に対して「先輩たちに学びたいので、参観を通しての貴重な意見を聴かせてください」という言葉が必ず発せられたものです。妙にくすぐったい気分にさせられましたが、日中双方とも大真面目でしたので、逐語訳で正確な通訳に努めました。
      その頃、記念品売り場で買った唐代の女人陶俑(女子十二楽坊のように、各種楽器を手にしたシリーズ)のレプリカは今も日本の留守宅の下駄箱の上にあります。美術カードも含めて、とても割安だった印象があります。売る方も買う方も、1970年代末から提唱された「社会主義市場経済」に不慣れだった兌換券の時代でした。


      上海博物館は北京故宮博物館、南京博物館とともに三大博物館と称される事もあるようですが、その場合、台湾の故宮博物院のことは別格にしているのでしょうか?因みに故宮博物院は、昨年末に嘉義市に南院が新設されたので、台北市のものは北院と称されるようになっています。


      その北院は6月末の時点では劇的に静かになっていました。入場料を払って進んで直ぐの処に「請輕聲細語(Please keep your voice low)」という看板がありましたが、その看板目的の対象者の行列もなく劇的に減っていました。加えて、嘉義市の南院の目玉として団体客に人気のある「翠玉白菜」が南院に出張展示されているので、北院は余計に静かであったのでしょう。台北の故宮博物院で宋朝の青磁・白磁の粋を静かに、ゆっくり眺めるには今を措いて無いようですよ、とお伝えしたら、大阪の老舗画廊のK社長から以下のような返信を頂戴しました。


      ・・・今年12月 東洋陶磁美術館にて「北宋汝窯 台北故宮博物院 青磁 水仙盆」という展覧会が開催されます。東洋陶磁美術館の所蔵品も含めて、世界に6点しか存在しない「青磁 水仙盆」の展覧会です。故宮のリニューアルオープンの展覧会も汝窯の展示が一本の柱でした。
      今回の東洋陶磁の企画も素晴らしいものと思われます。12.月10日から3月26日の期間と聞いております。ご来阪の折 お時間があれば、ご覧ください・・・


      12月の大阪開催まで待ち遠しい向きには、陳舜臣の直木賞受賞作『青玉獅子香炉』を読みながら、台湾にたどり着くまでの故宮秘宝の変遷をたどることは如何でしょうか?苦瓜を食べなくても暑気払いができるような内容だと思います。(了)


    2016.07.25

    山東「斉長城跡」から蘇州「斉門」を眺める 【蘇州たより 工藤和直】Vol.51 (読む時間:約4分半)

  • 2016.07.06

    散歩の会 【上海の街角で 井上邦久】vol20 (読む時間:約4分)


    • 1930年前後の上海の街を通底するテーマとして、色んな角度から変奏曲まがいの拙文を綴っております。時にお気楽なハ長調、またある時は少し重い気分のニ短調と、気まぐれな内容です。ただ、できるだけ街を歩きながら考えるという姿勢を続けていきたいと思っています。


      もうかれこれ25年くらい続いている「茨木土曜クラブ」。茨木市主催の父親学級で一年間をともにした仲間と、自主的な集いや行動をしようということで始まりました。多少の出入りはありますが、20名前後で年6回の活動が継続されています。会員自身による発信を大切にしています(来月には元会長から戦争中の体験報告。昨年8月には、上海から戻って「ほんまはどうやねん?中国!」の定点観測の報告をさせてもらいました)。屋外活動も盛んで、季節に合わせた探索地の選択や事前の下見と味わい深い資料作成をしてもらっています。大阪城などでボランティア活動の経験豊富なIさんや一級建築士のMさんに町歩きの面白さを教わってきました。最近ではMさんが設計した三田市立図書館から三田城址へ。水軍として名を馳せた九鬼氏が山の中でも水練を続けたという堀池、そして九鬼家家臣の白洲家の墓地で白洲次郎・正子の墓を拝んだコースが印象に残っています。また以前に、堺の鉄砲鍛冶町や刃物町を散歩した折に買ったペティナイフは、生涯単身赴任の強い味方になっています。数年前には、茨木から上海まで数名のメンバーが来てくれたので、水郷や上海の下町散歩の案内をして少しだけ恩返しができました。数年前からの課題として、あっという間に四半世紀を経た土曜クラブを土曜日に開催する必要性が乏しくなったことです。


      こちらは土曜日開催が原則の「上海歴史散歩の会」の説明は、多くの方には多余的話でしょう。次回の散歩の案内が会員へ一斉配信された数時間後には受付締切りになる状態が多くあるようです。仕事熱心な方々が帰宅してメールチェックをする頃には、案内と締切りの通知を一緒に読むことになり、残念に思うことがあるようです。
      今は普通の人が普通の生活を営んでいる場所が、その昔は茶館や青楼であった(福州路散歩)とか、戦前の日本人が建てた日蓮宗の寺であった(虹口散歩)とかの例は枚挙にいとまがないのです。普通の生活空間を多くの散歩者がぞろぞろ覗き歩きをすることは厳に慎むべきであり、やむを得ず参加者人数が絞られることになります。
      こちらの会も資料の執筆編集には多大な力が注がれており、専門研究者による書下ろしの松江散歩資料などは白眉でありました。楚国の春申君が上海開発に着手したことに因んで上海の別称が「申」であり、母なる黄浦江は春申君の「黄」姓に由るという解き起こしからの説得力に満ちた解説にうなりました。日本との交流の歴史も深い、寧波そして揚州には一泊バスツアーになりました。


      顧問の陳祖恩東華大学教授夫妻にはいつもマクロからミクロへのご指導ご配慮を頂いています。寧波散歩の折には、陳教授に故郷料理の献立を選んで貰い、ご親戚とも交流させて頂くというオマケ付きでした。帰りのバスでは「この散歩の会への中国人の参加者が少ない。中国人はもっと歴史に学ぶべきだ」と真摯に語りかけることを常とされています。
      昨年の歴史散歩の会で、上海の民族資本家についての資料準備と講義そして道案内を された上井真さんは既に上海駐在から日本に戻っている方です。事前に資料を拝読していて、民族資本家である栄家一族に触れていることに気付きました。末裔には中国国際信託諮詢公司を創業して国家副主席まで務めた栄毅仁もいる無錫の栄家です。
      大学時代に薫陶を受けた中井英樹筑波大学名誉教授の業績の一つは栄家勃興の研究であり、以前に現地調査報告と論文を送って貰っていました。その資料を携えて上井さんに会ったところ「これがオリジナルですか!栄家研究には中井先生の論文が必須なので、あちこち探し、苦労して大阪の図書館で全頁コピーをしました」ということでした。その後、平塚で中井先生と上井さんを引き合わせ、トラック何台分かを処分したあとの資料の山を仕分け、上井さんに整理、分析してもらうという協業の約束ができました。
      中井先生の資料は、井上には「猫に小判」。それを上井さんとの「井の字」の御縁が繋がり「瓢箪から駒」の発展系になったのも、「上海歴史散歩の会」の事務局各位のお蔭です。


      上井さんは「江戸東京散歩」を始められています。一回目の蔵前辺りの米倉経済の考察散歩には都合がつかずに欠席。二回目の千代田城周りの水都としての江戸の発展(重要な水辺の場所に九鬼家の名前が)を知る散歩には、法事を終えてから参加し、和田倉門から合流させて貰いました。「和田」とは「海」のことと教わりました。確かに「ワタ」「パダ」とくればハングルで「海」「わたつみ」の意味に結び付きます。和田倉門の眼前に日比谷湾の海水をイメージするのが歴史散歩の醍醐味です。建築士のMさんから授かった「五感も六感も働かせながら歩きましょう」の教えの実践でした。(了)


    2016.07.04

    西暦1860年、その時日本と中国の近代史が変わった 【蘇州たより 工藤和直】Vol.50 (読む時間:約6分半)

  • 2016.06.06

    上海の街角で 【上海の街角で 井上邦久】vol19 (読む時間:約4分半)


    • JR環状線の大阪駅から一駅下ると福島駅があり、最近は個性的な趣向や料金の店ができて、客足も増えているようです。この数年、古いスタイルの商店からの模様替え,商売替えも進んでいます。その古いスタイルの典型のような小さな店が、福島駅から20メートルくらいの場所にあり、店名の「ミヤコ楽器店」に惹かれて何回か通ったことがあります。
       大阪府北河内郡四条畷町の高校生だった頃(大阪万博の前でした)、片町線という単線電車に揺られて繁華街に出ることは滅多になくて、たまに思い立って大阪駅前の旭屋書店でペーパーバックの英文小説を買うか、心斎橋筋でレコードジャケットを眺めるか、という精一杯気取った動機づけで交通費を捻出していました。当時の心斎橋筋は大丸・そごう百貨店を筆頭に老舗が並ぶ風格のある商店街でした。音楽関係では、YAMAHA音楽教室を別にすれば、大月楽器店とミヤコ楽器店が突出した二強でした。当時のレコード歌手は販売促進のために、大手のレコード販売店を訪ね、場合によれば仮設のステージ(ビールのカートンボックスなど)で新曲を歌うことがありました。大阪では心斎橋筋の二強の店にサービスをして、多く売ってもらうことはレコード会社にとって大切なことだったでしょう。過剰なサービス精神とバランス感覚で、新人歌手の芸名を「大月みやこ」としたことも、当時としては話題性があったのでしょう。


      今世紀の初め、心斎橋筋の変貌は凄まじく、イタリアからの客人は街並みが乱雑になるのは嘆かわしいと憤慨していました。この友人は「曽根崎心中」の切り場で涙を流すようなイタリア人ですから、老舗の衰退や安直な今様の店つくりを許せなかったのかも知れません。ミヤコ楽器店も2002年に心斎橋筋から店仕舞いをして何年も過ぎているのに、同じ店名のCD販売店が福島にあることに驚いたわけです。新曲のCDも置いていたのでしょうが、かつての大阪郡部の高校生が好んだ青春歌謡CDが多くありました。吉永小百合と三田明のデュエット曲集の発見などは特筆ものでした。レジの若い店主に、「失礼ながらこちらのミヤコさんは、あの心斎橋筋のミヤコさんと関係があるのでしょうか?」と聴くと「お祖父ちゃんの代までは心斎橋筋で大きな店をやっていました」とのこと。「そうでしたか・・・」という返答しかできませんでした。


      拙文の連載を始めるに当たって、テーマと題名をどうしようかと考えました。基本となるテーマは上海の街にちなむことを、できれば1930年前後の事と今の上海に結び付けて書かせて貰おうと思いました。時は国民党の隆盛期、官僚・金融資本主導の経済も二桁成長。東西南北の中山路で租界を封じ込める道路建設は、海外列強からの蚕食を喰い止める象徴的な工事だったでしょう。国父孫中山先生の名前を冠したのも、道路の目的や企図からして共感できます。そして、五角場での新都心建設に着手します。ペンタゴン状に道を配し、政府系機関の建設が始動していました。立派なスタジアム、水泳場の名残は現在もあり、そのアーチや窓の数が3個であるのは三民主義の象徴でしょうか?また、その近辺を歩くと小さな寂れた路地に「民権路」「政府路」などと大仰な名前が「保存」されていることに感動を覚えます。そんな1930年代の名残を残す上海の街をスケッチしようと決めました。ちょうどその頃、戦前の上海を題材にした曲に詳しい大先輩から『上海ブルース』と並んで『上海の街角で』という歌謡曲があるよ、と教えて貰いました。さればと、連載の題名を「上海の街角から」に決めて、拙文を綴り始めました。
      そうなると、その歌謡曲を丁寧に聴いておきたいという実証主義?と行動派の血が騒ぎ、福島駅のミヤコ楽器店(たしか楽器は置いていませんでしたが)へ赴きました。さすがの古い歌謡曲に強い店でも、目指す曲を探し出すにはかなりの時間と粘りが必要でしたが、『昭和の流浪歌』(テイチクレコード=帝国蓄音)というCDがあり、『カスバの女』『星の流れに』とともに、佐藤惣之助作詞、山田栄一作曲、東海林太郎が歌う『上海の街角で』を発見できました。


       ♪リラの花咲くキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角
                 紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路が懐かしや♪


      上海航路の船乗りと日本から上海に出稼ぎに来ているダンサーが、一年を経て別れ話になった。船賃の足しくらいの少しのお金を渡して女性を日本に返し、自分が華北の新天地で一旗揚げるまで待っていろ、という男にとっては都合の良い内容です。タンゴ風の曲調は、戦後の『上海帰りのリル』に通じる気もしますし、ストーリー的にも繋がらないこともない?しかし、それはどちらでも良いことです。
      問題は歌詞の間に挟まれたセリフです。
      「・・・あれから一年、激しい戦火をあびたが、今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た・・・」という能天気なことを復刻版のCDでは渡哲也が語っています。1938年に出されたオリジナル版のセリフの主は誰か?上述の先輩にお尋ねしたら、「それは佐野周二」と即答してくれました。上原謙、佐分利信と三羽カラスと称された二枚目銀幕スター、という説明より、「サンデーモーニング」の関口宏のお父さん、「アカシアの雨のやむとき」の西田佐知子のお舅さんが佐野周二です、という方が分かりやすいかも知れません。


      このセリフにある1937年の「激しい戦火」によって、国民党の短い春は終わり、五角場の新都建設計画は霧消しました。今年、その国民党候補に圧勝した民主進歩党の蔡英文総統は「小英」と親しまれ、具体性に欠ける経済政策を「空心菜(蔡)」と揶揄されています。
      大月みやこはベテラン歌手として活躍を続けていますが、福島駅近くのミヤコ楽器店はすでに無くなっています。闇市跡の建物だった旭屋書店で買った『ドクトル・ジバゴ』は冒頭のみ辞書を引きながら読んだと思われる赤鉛筆の跡がありますが、残りの多くの頁は半世紀に渡り、きれいなままで本棚の隅に保存されています。(了)


    2016.05.30
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