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コラム「上海の街角で」

日中の交流 【上海の街角で 井上邦久】vol32 (読む時間:約5分半)

    • 神奈川大学での学会出席のため、上海から横浜に来られた珈琲好きの先生と休日の午前をご一緒しました。ホテルからほど近い陋居にお越しいただき、濃い目の珈琲を淹れてから、忌憚なく色々な話の花を咲かせました。


      まず、前回3月末の来日土産に頂いた『顔梅華 口述歴史』(上海書店出版社)の御礼と読後感から今回の交流が始まりました。上海市文史研究館口述歴史叢書のシリーズで、著名な国画家というよりも、戦前の「連環画」の売れっ子といった方が通りの良い顔梅華さんが語る自分史を、先生が聴き取り原稿に仕上げた一冊です。顔氏に限らず、口述歴史の難しさは、どうしても主観的な側面が滲み出てくる点ではないか?という点を指摘しました。功成り名を遂げた大家の隠された部分の扱い、有体に言えば、現状に満足されている高名な老人たちにとって、触れて欲しくない側面裏面があっても、それを抉る事を期待するのは難しいでしょうね、という率直な感想を伝えました。ご本人の口述でなければ知りえない事例や人物評などはとても貴重であり、それを丁寧に聞き書きされた労作であることを十二分に理解した上で、書生論を口にさせてもらいました。「ただ、それだけではない」という点を意識しながら口述歴史を読みつつ、第三者が書いた別角度からの評伝等にも触れる姿勢が大切であろうと理解しました。蒋介石の何番目かの夫人、蒋介石が宋美齢と結婚するために正妻の座を失い米国留学に追いやられた陳潔如女史が口述したと言われる記録があります。様々な事情で長く公刊されなかった時期を経て,1992年にようやく台湾で出版された『陳潔如回想録』の例を挙げるまでもなく自叙伝の読み方は難しいものです。


      次に今年2月に勉誠出版から出された『戦時上海のグレーゾーン 溶融する「抵抗」と「協力」』堀井弘一郎・木田隆文(編)が話題になりました。21名の研究者が夫々の専門分野における上海のグレーゾーンについて健筆を振っています。序言で堀井氏は、1937年から1945年の戦時下の上海に於いて、日本軍側の「支配」と中国側の「被支配」があり、被支配側の内部にも「協力」と「抵抗」の異なる立ち位置があり、それもまた一枚岩ではなかったという「グレーゾーン」の定義をしています。関智英氏による「汪兆銘政権の人々」の複雑に絡んだ各グループへの精緻な分析、上井真氏の「劉鴻生の戦時事業展開」では、民族資本家が如何にして人と財の継承に腐心したかの考察、武田泰淳「上海の蛍」を手掛かりにして「中日文化協会上海分会と戦時上海の翻訳事業」について丹念に再確認された木田隆文氏の文章など、それぞれが一冊の本になりうるようなテーマがダイジェストされていました。長い間、赤か白か、紅か青かと二極分化して捉えてきた古い認識の蒙を啓いて貰えました。「政治・経済」、「社会・文化」。「言論・メディア」の三章に仕分けされていますが、239頁という限られた紙幅のなかに、広範なテーマを盛り込むにはかなりの力技が必要だったことでしょう。下世話な表現で恐縮ながら、大阪でのたとえ方で言えば、「てんこ盛りのかやくご飯」をオニギリにしたような印象が少し残りました、と先生に伝えた時、その温顔はそのままに、眼光が鋭くなった気がしました。そして交流とは、同じ平面で対等の立場で行われるのが本来の望ましい形でありながら、この書籍の各文章が研究対象とした時代は一方からの「直流」が大きな電位差で迸る中での「協力」であり「抵抗」であったという域まで想像力を逞しくすべきだと思い至りました。


      先生が上海に戻られた後に、2017年6月25日初版発行と奥付にある『上海の日本人街・虹口 もう一つの長崎』という賑やかな表装の本を偶然見つけました。著者は長崎県立シーボルト大学で教鞭を執り、「新長崎市史」の編纂に参画された横山宏章北九州大学名誉教授でした。長崎と上海を結びつける事例は多くありますが、この本は虹口をもう一つの長崎に位置付けることが主題の様でした。非常に多くの文献や資料を渉猟され、それを丹念に整理されていると感じました。巻末注の項には、珈琲好きの先生による日中交流史の著作からの引用が何回も出てきました。この本文中に、二人の中国人研究者の名前が記されています。一人は「劉建輝は、日本における【魔都】という言葉の使われ方に批判的である」(25頁)、もう一人は「上海における日本人街研究の第一人者である陳祖恩は、長崎人の活躍を次のように結論付けている」(55頁)という紹介に留めています。


      京都の国際日本文化研究センター(日文研)は今年創設30周年を迎え、磯田道史、呉座勇一ら気鋭の研究者の参画もあって活性化しているとの話を聴きます。6月13日に開催された第311回日文研フォーラム「筆談で見る明治前期の中日文化交流」(発表者:劉雨珍南開大学教授。日文研研究員)のコメンテーターとして登場した、日文研副所長の劉建輝氏はペリー来航時に翻訳官として随行した羅森から始まる日中交流について卓見を淡々と述べながら、一筋縄ではない各時代の日中間の交流の裏面や弱点を抉られていました。


      劉建輝『増補 魔都上海 日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)は、2000年にこの本が出された時、上海研究に一つの新しい風が吹いてきたと感じた(海野弘)と評された著作です。


      …上海は一九二〇年代にある日本人の「不良」作家によって「魔都」という異名を得た。以後この名は上海というさまざまな「顔」が錯綜する空間をよく表す言葉として、ほとんど陳腐になるまでさまざまな人に引用されてきた。そしてその喚起されたイメージはしばしば上海と関係した人びと、とりわけ日本人の心象風景の一つにさえなったといえる。…上海がはじめてその「魔性」を現出したのは、けっして二十世紀に入ってからではなく、その起源はむしろ遠く十九世紀の七〇年代にまでさかのぼる。…(劉建輝 前掲書165頁)


      上記の横山氏も一部を引用している「魔都」の曖昧なイメージを鋭く劉氏が抉った文章です。


      此処では「魔都」よりも印象に残った、未来に向けての劉氏のメッセージを引用します。…上海、また上海人自身も「過去」と「未来」の間を揺れ続けているが、すでに五万人を超える長期滞在者を擁する日本、また日本人が、「過去」を背負いながらも「未来」へ向けて、いよいよ新たな「伝説」を作り出さなければならない時期に差し掛かっていると言えよう。その作業こそが、いま一度有意義な「他者」として上海と相対するきっかけとなっていくに違いない。…(前掲書292頁)


      珈琲好きの上海の先生からの教えを踏まえて、「他者」として対する時、初めてフラットな交流が始まる、という基本姿勢に立ち返りたいと思います。


      (了)


    2017.07.06

    接続性 【上海の街角で 井上邦久】vol31 (読む時間:約5分)

    • 3月下旬、第115回の華人経済・文化研究会で、今年も「中国。この一年」と題する報告をしました。2013年から毎年3月に同じタイトルで定点観測を意識したお話をさせてもらっています。今年は、次の三項目を柱にしました。


        (1) 北京の掏摸(スリ、小盗)が減った
        (2) 「海」への進出が目立った
        (3) 華南の産業構造改革が注目されている


      (1)人民日報以外の多くのメディアに寄稿や出演をしている、著名なジャーナリストの陳言さんから教わった話です。最近の北京では人が外出しなくなった。外出しても現金は少ししか持っていない。だから掏摸の採算性が悪くなり、掏摸の数が減少した、ということです。もちろん陳言さんがデータを公安警察で調べたわけではなく、彼独特の表現方法で、大気汚染・宅配サービスの急成長・モバイル決済の急拡大などを分かりやすく指摘したわけです。
      自動販売機が急拡大していること、自動販売機の盗難が激減していること(モバイル決済のため、販売機の中には現金がない)と同じ理屈です。


      (2)大陸国家であった中国が海洋国家に急激に変貌しています。沿岸警備船舶の増強と人民解放軍における海軍の地位向上(それも従来の北洋艦隊優先から南洋艦隊の重視へ)世界の海運物流市場で圧倒的なシェアを確立し、ギリシャ、パキスタン、スリランカ、ジブチなど世界各地で港湾拠点の確保を推進中。旺盛な魚需要を満たすための遠洋漁業船団の急膨張(魚の消費量も、漁船20万艘も断トツの世界一)。海軍・海運・海外拠点・漁業すべての面での「海」への進出が顕著となった一年でした。


      (3)歴史的にも開明的であり、東南アジアなど海外に開かれた土地柄である華南。海外進出の伝統の担い手である華僑の故郷としての華南。従来から国有企業比率が東北や華北に比べてとても小さい華南。その華南では1992年以降、深圳を中核とする「特区」としての成長と巨大なサプライチェーンの構築が継続されてきたのは周知の通りです。この基盤の上に、活発なR&D投資による新産業の創生気運が党・政府の政策と相まって醸成されてきました。そこへ米国発祥のメイカー・ムーブメントの聖地としての深圳への投資人気が集中し、過剰なまでの期待が寄せられています。


      以上のような切り口で、それぞれの具体的な事例を挙げて、中国各地からの湧水が集まって川になり、その水がナイヤガラのような瀑布ではなく、赤目四十八滝のようなカスケードを形成していることを私見も交えて報告しました。
      恣意的な情報処理や世界的な視野から中国を捉えていない反省が残りました。
      五月になって読んだ新刊に『「接続性」の地政学』パラダ・カンナ(原書房)があります。副題として「グローバリズムの先にある世界」とあります。
      1977年インド生まれで、現在シンガポール国立大学上級研究員の著者は、従来から世界経済フォーラムにおける次世代リーダーの一人と見做されていましたが、CONENECTOGRAPHY Mapping the Future of Global Civilizationと題する原著により、更にその評価を高めているようです。
      日本では、尼丁千鶴子・木村高子両氏の滑らかな翻訳で出版されるや否や、多くの書評に取り上げられ書店に平積みされています。多くの方が既に手に取られていることと思いますが、屋上にミニ鳥居を重ねるような私見と印象を以下にメモします。


      (1)サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で冷戦後の世界を捉えなおし、長く一つの標準として語られてきた。しかし、その標準だけでは冷戦終結から四半世紀が過ぎた現在の大きな政治的変容や技術的変革を説明できなくなった。パラタ・カンナは「文明」に代わって「接続性」を強調。


      (2)新たな標準はサプライチェーンであり、グローバリゼーションの未来を語るのは「接続性」の度合いである、としている。


      (3)経済が深く相互依存している世界のシステムの内実を解明して、表面的には政治的、軍事的に対峙しているように見える国家間の緊張した外貌とは異なる経済と技術の連携を説明。この点でかなり楽観的な印象が残る。


      (4)この新しい世界を組み立てているのは中国であり、中国は新植民地主義者でなく新たな重商主義者である。経済合理性に合わない「領土」や「扶養家族」を増やす気がないとする。孫文が『三民主義』の中で「中国は列強の植民地ではない。(インドのような)植民地にもしてもらえない半植民地である」と喝破したことを想起し、孫文の曾孫たちがアフリカや南米を植民地にする気がないことに気付く。


      (5)中国の華南地区の「特区」に着目し、華僑の存在に過剰なまでの可能性を期待している。・・・中国が4000万人の華僑の一部に二重国籍を認めれば、それは国内に新たな優秀な人材を呼び込み、高齢化する人口に活気をもたらすきっかけになるだろう・・・(上巻97頁)


      (6)インフラとサプライチェーンについての記述が繰り返してなされている。通関手続きを半減すれば、貿易量は15%、GDPは5%上昇するが、輸入関税撤廃はGDPを1%上昇させるだけとか、中国の可動式の深海用掘削プラットフォームであるHYSY-981は、今日の地政学においては移動可能なサプライチェーンの島であるといった具合。


      (7)「マラッカの罠」回避の為、中国はタイのクラ地峡運河構想、ミャンマーやバングラディッシュの港からの陸路建設、北極海航路開発に熱心。


      グローバルという言葉が日本にもたらされて半世紀以上が過ぎていますが、未だにカタカナ表記のみで、中国語の「全球」のようには、日本語の適訳がありません。それでいながらグローバルという単語が独り歩きして、頻繁に使われています。しかし、グローバルとは何ですか?という質問をすると返答は色々です。その解を探す意味でも、この本はグローバルというものを逆照射しているので、国際化や跨境化(ボーダーレス)とは異なる視点が参考になりました。
      「真水もて熱帯魚飼うセオリスト 己の次に中国を愛して」という岡井隆の有名な短歌にもある通り、中国に対しては好悪両極の評価をしがちな日本人と比べて、インド人は「中国とは文化も価値観も違うけれど、しっかり中国のことを把握する価値はある」という覚めた(醒めた、冷めた)見方ができるようです。世界を実地に歩く著者のカンナ氏もその一人であり、実に多様な中国を歩いて、知って、考えているようです。


      カスケードを発見するだけでなく、全地球的な見地から源流と下流域を分析することが大切であることを学びました。来年3月の定点観測は少しだけ深みのある報告ができるかも知れません。


      (了)


    2017.05.21

    清明穀雨 【上海の街角で 井上邦久】vol30 (読む時間:約3分半)

    • 国家統計局都市司の縄国慶高級統計師は、2月の消費者物価が前期比で0.2%下落した特徴として、1)2月の全国平均気温が例年に比べて明らかに高く、生鮮野菜の生長に有利となり、市場供給が充足した、2)春節後の需要が弱まり、卵・豚肉・鶏肉価格が下落した、3)春節後の外出・観光人数が減少し、航空券代・旅行社手数料・旅館宿泊代が下落した、点を挙げている。


      日中産学官交流機構第19回中国塾での田中修塾頭による定例経済報告からの抜粋です。暖かい2月、その後の寒い3月を経て清明節の頃からは徐々に天候も安定してきました。二十四節季の清明から穀雨(太陽が黄経30°に達した時とされ、日本中国とも今年は4月20日。昨年の中国では4月19日23時29分だった由)の間は仲春から晩春の季節で、農耕作業が繁忙化するころであります。日本の中国地方の山間に住む母親からも苗代作りのたよりが届きました。気が付けば、一年のほぼ三分の一が経過し、日本では新年度が始まり桜の開花とも相まって、新規の気分が満ちて来ます。


      端午節、七夕節が日本に伝来して色々な変容をしながらも定着していることに比べ、清明節に必須の墓参りの習慣は日本には縁が薄く、沖縄や中華街以外では寡聞にして知りません。


       清明時節雨紛紛
       路上行人欲断魂
       借問酒家何処有
       牧童遥指杏花村    杜 牧『清明』


      上海では、清明節に墓参りとともに草餅を食べる習慣も盛んで、福州路などの老舗の「青団」はこの時期の売れ筋です。花より団子、団子より杏花村でお酒をもとめたい向きの言い訳には、杜牧の詩が便利で、『清明』はこの時期に、人口に膾炙されます。
      清明節前後には、上海のスタッフ達に「掃墓(sao 3mu4、墓参り)は何処へ?」と訊ねました。上海旧市内と応える人はほとんど居らず、昆山です、とか黄山ですとかの返事が多かったです。シティボーイやガール達も、多くは何代前かに上海へ移住してきた人たちの子孫であり、先祖の墓は上海以外の各地に所在しています。そしてスタッフ達もこの時期だけは先祖を敬い、自らのルーツを意識するようでした。
      いささか自己満足のきらいはありますが、各地のスタッフ達との交わりのなかで、「你好+1」を心がけていました。「こんにちは」の挨拶だけで終わらせず「+1」の個別の話題を作るようにしていました。色んな話題の中で、快く反応があり印象に残ったのは「子供」と「先祖の出身地」についてでした。


      清明節に里帰りした畏友のC弁護士からお土産に二枚の写真を頂きました。壁に墨書された族規(一族の規則)十項目と家訓十項目の写真には、目指すべき姿勢と避けるべき戒めが並んでいました。一見すると「言うは易く」、実際は「行うは難い」この教えを墨守しているであろうC家一族からは、虎も蠅も出ていないと想像しています。Cさんは久しぶりの故郷で、祖先と「会話」し、一族の規則や家訓をあらためて「勉強」してきたとのことです。
      宮本常一の名著『家郷の訓』を持ち出すまでもなく、日本にも家訓やそれに類するものがありましたし、今でも残っているでしょう。二昔前までの日本のオフィスには、しばしば金融関連商品のセールスの電話が掛かってきました。丁重にお断りする時に「我が家には家訓があって、株も不動産投資もできません」と云うと、若い声で「カクン?」という反応があり、自らの言葉が時代錯誤的な印象を与えていることを感じた記憶があります。そんな時代を経て、今の我々に大切なことは家訓の有無ではなく、Cさんのように祖先と「会話」し、一族の訓えを「勉強」して自らを省みる姿勢なのでしょう。


      清明(きよあき)という名前の伯父(母の兄)は昭和4年生まれ。従弟に電話で4月14日が誕生日であることを再確認して、名前の由来を得心しました。大正モダンボーイ、慶応ボーイの祖父稲次郎が、節季に因んでオーソドックスに命名したことを微笑ましく感じます。そして杜牧の詩を知っていたかどうかは別にして、祖父も伯父も酒が好きであり、強かったことを思い出しました。


      (了)


    2017.04.18

    周恩来首相 【上海の街角で 井上邦久】vol29 (読む時間:約4分半)


    •  雪残る湖西湖東の分かれ道(拙)


      雛祭り、中国では第12期全国人民代表大会が開幕しようとするころ、湖西線回りの新快速で敦賀へ。今回は気比神社にも、人道の港ムゼウムにも寄り道せず、福井行きの普通電車に乗り換えました。長年の朋友であるSさんは、一昨年来現場に復帰して企業再建に尽力されています。そのSさんから昨年末に電話を貰いました。支援元から派遣された総責任者のT社長は学生時代に中国に行ったことがあるようだ、もしかして二人は仲間同士ではないかい?といわれるSさんの推測は的中しており、今回の訪問に繋がりました。
      大きな窓越しに雪に覆われた白山山系を目の当たりにできる、地元老舗企業の応接室に封筒を持参しながら現れたのは、40年以上会うことの無かったものの、一目でその人と分かる紛れもないTさんでした。Tさんは封筒から二枚のコピーを取り出し話し始めました。一枚は1971年3月13日に撮影された集合写真のコピー、もう一枚は集合写真と参加者を報道する3月14日付けの「人民日報」一面記事のコピーでした。この二枚のコピーを目にしただけで、ちょうど46年前の3月、残雪が凍っていた北京の人民大会堂に一気にカットバックすることになりました。


      学生が国交回復前の中国に行くには個人旅行は難しく、日中友好協会の推薦支持のある団体に参加する形が多かったと思います。当然ながら公安警察からの圧力や恫喝(ブラックリストに載せるから、まともな就職などは考えないことだ、という担当官の捨て台詞もありました)などの通過儀礼を経たのちに、大阪からわざわざ外務省本省で特別なパスポートを入手して、ようやく香港に飛ぶことができました。香港市街から国境の町の羅湖で出国手続きをして英国軍と中国人民解放軍の厳重な警備のなか、一人一人徒歩で橋を渡って深圳へ。その頃の深圳は、駅前から水田が広がり水牛が働くのどかな農村でした。
      広州、長沙、韶山(毛沢東生家見学)、南昌、上海(馬陸人民公社、工業展覧館など)、南京、天津と汽車移動をしました。上海では、和平賓館の窓から眺める街角に車も人も少なく、時々紅衛兵たちの「游行」(隊列示威行進)が通過する際に賑やかになり、やがて静寂が街をつつんでいました。和平賓館ロビーの本棚には「人民画報」「北京週報」と毛沢東選集(当時は4冊本)だけが無造作に置かれていたと記憶します。
      入境して三週間が過ぎ、北京に入ってからの大学などの見学や現代革命京劇(『紅灯記』『沙家濱』)の観劇にも些か退屈してきた3月13日。中国旅行社の人たちから「今日は一番いい服を着てください」との要請指示がありました。連れて行かれたのが天安門広場の西側の人民大会堂でした。そこで周恩来首相が出迎えてくれるとは30名の団員の誰も予想しておらず、さらに記念の集合写真を撮ってから面談と会食になりました。一国の宰相が異国の学生相手に8時間もの時間を割いてくれたことにも驚きました・・・ここまでのオサライについては、Tさんの記憶や印象もほぼ同じでした。しかし、周恩来首相や陪席した郭沫若氏(人民大会常務委員会副委員長・中日友好協会名誉会長)と会えたことだけで舞い上がることなく、Tさんはとても冷静に面談に参加されていたことが今回の再会で良く分かりました。翌日付けの「人民日報」をしっかり入手して保管されていたことにも敬服しました。
      後からの知識として、1971年3月の周首相は文化大革命の渦中にあり、毛沢東主席と№2の林彪副主席の間で軋轢が増していた時期に当たります(林彪の国外脱出、墜落死事件は同年9月13日とされています)。他方ではソ連の軍事的圧迫への対応策として、米国そして日本との関係改善を水面下で行っていた頃とも考えられます(ニクソン大統領、キッシンジャー長官の訪中は、1972年2月。田中角栄首相、大平外相、二階堂官房長官の訪中は1972年9月)。
      ウィキペディアで「周恩来」の項を引くと、「逸話」の一例として以下の書き込みがあります。
      ・・・1971年関西学生友好訪中団との会見において、こう語っている。
      「日本民族は偉大な民族です。元はインドシナからモスクワ、朝鮮まで
      侵略しましたが、日本は2度、この侵略を撃退しました。(後略)」・・・
      このような周首相の発言も聴いたはずですが、今では忘却のかなたであります。
      周恩来首相の死後、何人かの首相がそれなりの努力を続けてきましたが、その誰もが周首相の影を意識してきた印象があります。昨年来、皇帝と宰相のような力関係が濃厚になってきた当今の首相は、折からの人民大会堂での報告に当たって、周恩来首相が味わった苦汁の再来を、どのように受けとめ呑み込んだことでしょうか。


      30名の団員の内、宝石商から帰農したNさんと日中共同トキ保護活動のため西安に駐在していたMさんに続いて、今回Tさんと連絡がつきました。まずは名刺交換からというサラリーマンの所作も忘れて、二枚のコピーから始まったTさんとの会話は、中国団体旅行については事実確認が大半で、懐古談がほとんどなかったことを心地よく感じました。中国の流れはじっくり眺めて対応することも大切だ、しかし「不易と流行」は峻別して、決して流されてはならない、そして如何に後世にバトンタッチしていくかを考えることが大切だと異口同音に語り続けました。熱冷ましに、かまやつひろし『我が良き友よ』なども唄いました。


      (了)


    2017.03.19

    ニ月礼者 【上海の街角で 井上邦久】vol28 (読む時間:約3分半)


    • 二月礼者の意味を辞書や歳時記で調べると、年明け早々に多用であった為、年始挨拶ができず、二月になって関係先の挨拶に回る人、またはその風習、とあります。ただ、今の日本にそんな人や風習が多く残っているとは思えませんし、二月どころか正月でも私的な挨拶回りは徐々に減っているようです。年賀状も元はと云えば、年始回りを端折って葉書一枚で代用する簡便法が始まりだと思います。昨今ではその簡便な年賀状さえも省略してメールで済ませる御仁が増えています。


      中国ではもともと日本ほど年賀状の習慣が盛んではなかったようですが、少し前に学校生徒による豪華なグリーティングカードの交換が社会教育問題になっていました。そして昨今では紅包をチャットで贈るスタイルが新常態化しそうな気配のようです。


      そんな中で二月礼者とは絶滅危惧種のような年始挨拶の形態のようでもあります。ただ日本の正月祝いと中国の春節祝賀を補完する意味では、それはそれで便利な言葉のような気がします。米国の偉い人はもっと上手で、中国の偉い人への春節の挨拶は失念したものの、元宵節には何とかメッセージを届けて帳尻合わせをしたのは周知のこととなりました。


      ところで、この二月礼者という季語を知ったのは、


      紹興酒ぶらさげ二月礼者かな   瞿麦


      という俳句を知ったことがきっかけです。これは上海在住の朱實先生の作品です。台湾彰化の人、笑いながら大正生まれと自称される朱實老師は、瞿麦という俳号で長年に渡り俳句や漢俳(漢字のみで五七五文字)の秀作を残されています。或る方の紹介で朱實(瞿麦)老師との交流が始まったいきさつは、この欄で拙文が掲載されるようになった第一回目に綴っています。その後も俳句や漢俳のご教示を頂いたり、おこがましくも老師の漢俳を俳句に移してみたりの試みを続けています。また、映画監督の山田洋次さんとの仲介をさせて頂いたこともあります。山田作品の『家族はつらいよ』がもうすぐ中国でも公開されるらしいことも嬉しいことです。


      ここで、汗顔の至りではありますが老師の漢俳と拙訳による俳句への置き換えを参考までに例示させてもらいます。


       一雷驚百蟲 万象更新新春意濃 耕種微雨中   瞿麦先生
          啓蟄や万象目覚む微雨のなか       拙


       掌中転胡桃 緩緩自問又自答 秋思幾多愁    瞿麦先生
          掌に胡桃自問自答で夕べまで       拙


      二月礼者の句は朱實先生が日本の大学で教鞭を取っていた頃に句誌に残されたようです。 それから幾星霜が過ぎた昨年の秋、東京神田のA社が主催する「伝統を次代に繋ぐ」秀作俳句展示会に二月礼者の句が選ばれたようだと老師からの電話がありました。おめでとうございます、と天真爛漫に反応したところ、実はそれほど単純ではなくて、出品するとなると、先ずは手数料が必要で、更には西陣織による高級表装の「実費代」として、合計で十万円近くを送金しなければならない由で、どうしたものかなとの相談でした。


      この文化的な縫いぐるみをまとった申し入れは、海を越えた大掛かりな企画工夫だから丁重に対応すべきだ、と日本在住の朱老師の息子さんからのご連絡がありました。それは婉曲に謝絶すべきだとの穏当なご意見でした。上海のベテランの詩人たちの会合では若さ溢れる熱気侠気から「作品を提供する場合は、逆に主催者から作者へ謝礼金を払うのが筋だ」という意見が多かったとのことでした。最終的に老師にはA社の担当者に対し、愛着のある旧作を日本で展示して頂けるのは光栄です、ただ上海で隠遁世活をしている老書生らしく自筆色紙を会場の隅に掲げて頂ければ幸いです、と返事をしてもらいました。加えて上海からの色紙の制作料と国際航空郵送料は作者で負担するという申し出をされましたが、A社からは音沙汰のないままになったようです。


      「二月礼者」という季語、「婉謝」という対応姿勢、卒寿を超えた老師の聡明さを学ばせてもらいました。それにしても日本と中国の文化交流は、俳句と漢俳の交流のように一筋縄にはいかず、落とし穴もあることを再認識しました。諸事情と怠惰のため、日本の年初の挨拶を控えた不肖の弟子は老師の軽味に倣って、春節の頃に年始の挨拶句を捻ってみましたが・・・


           微醺帯び二月礼者と知られたる  (拙)


      (了)


    2017.02.20

    梅蘭芳 【上海の街角で 井上邦久】vol27 (読む時間:約4分)


    • 春節を目前にした横浜の中華街、関帝廟ちかくの横浜中華学院から聞こえてくる太鼓の音にも熱が帯びて来ました。一方、横浜山手中華学校では、徐夕の日に新潮戯院による京劇ワークショップが開催される予定です。寒気のなか、月は細くなり、紅い灯籠も鮮やかさを増して、春節の到来を感じさせます。


      昨年、東京の成城ホールで、石山雄太さんらの新潮戯院による京劇を観る機会がありました。北京では長安戯院などの大劇場に通い、上海では福州路の庶民的な天蟾逸夫舞台で聴いて以来の京劇であり、しかも舞台近くの良い席でしたので久しぶりに堪能しました。


      石山雄太さんについては、よく知られている通り、中国戯曲学院附属中学校から留学し、同大学を卒業後に外国人として初めて中国国家京劇院に所属を認められ、日本・中国で地道な活動を続けて居られます。


      京劇を海外で初めて公演したのは、梅蘭芳の率いる劇団であり、1919年の日本に於いてでした。二回目の来日公演は1923年で、関東大震災慰問のチャリティ興業であったとのことで梅蘭芳に関する美談も残っています。戦後日本での初の京劇上演は1956年で、やはり梅蘭芳一行でした。その折の録画をNHKで見たおぼろげな記憶があります。日本の歌舞伎の近代化を京劇改革に採り入れ、絶世の女形、そして『親日家』として日本人の間でも絶大な声価が高く、好感を持たれていたようです。


      梅蘭芳については多く語られ、京劇の進化発展に貢献し(二胡の導入など)、欧米でも爆発的な人気を博したことは広く知られています。ここでは、冗語を避けて、林語堂による梅蘭芳への簡潔無比な賛辞を記すことに留めます。


        他是造物主精妙無比傑作
        He is a wonderful masterpiece of the Creator.


      かれこれ5年以上前、日本からの友人夫婦とともに北京の下町、和平門近くをぶらついて居た時に、しもた屋風の店がポツンポツンとあるだけの人通りの少ない路に紛れ込み(あとから確認すると、前門河沿街でした)、背の高い壁が続くなかで、ある家の古い門が開かれ、客寄せ人が出て来ました。取り立てて此れといった目的はないけど、好奇心はある我々三人は、このような朽ち落ちた街路の壁の中に劇場があるのか?と訝りながら木戸銭を払って入ると、中はかなり奥深く、整然とした内庭に続く劇場は清潔な作りでした。この偶然が、数百年の歴史を持ち、梅蘭芳の祖父から続く劇団の常打ち場であった「正乙祠戯楼」との遭遇でした。改造改装されて日も浅そうな劇場で、梅蘭芳の息子である梅葆玖が総監する「梅派」の名作のダイジェスト上演を待ちました。


      梅蘭芳が創作し、練り上げた「覇王別姫」や「貴妃酔酒」ではなく、おどろおどろしい武人が出てくる「抗金兵」から始まりました。


      「抗金兵」は1933年に上海で初演。金による宋への侵略が続く中、長江防衛線の潤州(鎮江)の守将である韓世忠とその夫人梁紅玉が金兵を追い返した歴史故事に題材をとった作品です。金兵を迎撃せんと金山江上に布陣した味方を鼓舞する為に、梁紅玉が自ら太鼓を鳴らした場面が見所のようです。


      九一八事変のあと、梅派京劇の故地である北京を捨てて、梅蘭芳は1932年に一家を挙げて上海に移住しています。そこで「抗金兵」を創作して、自ら将軍夫人の梁紅玉を演じています。女性ながらも勇猛果敢に、敵に抗する女大将として唱念・撃鼓・武打など京劇技法を駆使して演じきり、上海天蟾舞台の満場の観客は梅蘭芳の抗戦戯劇に割れんばかりの拍手を送ったとのこと。


      その後、1941年に役者生活に終止符を打ち、香港・上海で遁世しています。その間、どんな懇請や圧力があっても舞台に立たず、女形役者を廃業する意思表示として髭を生やしたとも言われています。髭面の梅蘭芳の写真は未だ見る機会がありませんが、稀代の女形が髭を蓄えたことの重み、その抵抗姿勢に、戦前戦後の日本人が安易に「親日派」と思い込んだ梅蘭芳の骨の太さや硬さを感じます。戦争終結後の1945年10月には舞台復帰しています。


      横浜中華街に本店を置く『梅蘭』で名物の焼きそばを食べた後、中国人マダムに、店名の由来として梅蘭芳とご縁があるのか?と軽口を叩きました。しかし残念ながら中年のマダムは、梅蘭芳その人をご存知なかったので話が続きませんでした。55年前に亡くなった京劇役者のことを、春節の太鼓を聴いて思い出す酔狂な日本人客の方が普通ではないと自重自戒しました。


      ただこれからも「抗金兵」が舞台に掛かることがあるでしょう。(但し、頻繁に上演されないことを祈りますが)歴史教育が強化されるという昨今の政策下で、若い上海人が「抗金兵」に抗日意識を募らせ、割れんばかりの拍手を送るかどうか?福州路方面へ行かれる折に舞台を覗いてみてはどうでしょう。(了)


    2017.01.22

    『この世界の片隅に』 【上海の街角で 井上邦久】vol26 (読む時間:約4分)


    • 「バカにされたい大学」というキャッチコピーで受験生にアピールしているデジタルハリウッド大学(東京・神田)。「バカにされよう。世界を変えよう。」という姿勢で設立10年目を迎え、注目度を上げているようです。「学歴」とは、学校歴のことだけを意味して、学習歴は不問に付されることが続く中で異色の大学のようです。
      そのデジタルハリウッド大学の萩野健一教授に「聖地巡礼と地域再生」についての報告を身近で聴かせて頂きました。改めて言うまでもないことと思いますが、ここでいう「聖地巡礼」とは、アニメや映画の舞台となった街や土地を訪ねて、作中人物との一体化を試みる行動のことであり、エルサレム、メッカそして四国八十八か所といった聖地を訪ねる巡礼とは異なる新しい用語です。『ローマの休日』でのスペイン広場、『君の名は』で真知子巻きの岸恵子が待った数寄屋橋は映画作品から生まれた伝説的な聖地とされます。
      国内外からの訪問者が増え続けている『スラムダンク』の江ノ電踏切、『神様はじめました』の川越市などのアニメ聖地の紹介がありました。色々と新鮮な発想と情報を教えて貰いながら、「そこに住んでいる人たちがアニメをよく知らないから、なぜ急に人出が増えたのか?分からない」「増えた訪問者をしっかり捉えて地域再生にどのように結び付けるか?地元は手をこまねいている」など多くの現場の実態も知りました。ブームになっても、その多くは2~3年で潮が引いていく傾向があるようで、順風が吹いている間に、地域に根付いた産業や文化に育てるには、受発信を担う地元のキーパーソンを育むことが最も重要だ、という一つの指針に導かれました。
      クールジャパンの掛け声が大きくなる前から日本のアニメの世界的な浸透力は潜在的に広まっていたのであり、最近になって鋭角的に顕在化してきたのではない、という分析には体験的にも同感できました。ただ、それに続く「アニメの技術が優れているから評価されているという見方は皮相的であり、海外の人たちはアニメを通じて日本の文化や日本人の発想法を発見しているのだ」と主張される萩野教授の考察見地が大切だと思いました。アニメ聖地の住民が「なぜ人が来るのか分からない」状態が、実は日本全体にも共通していて、多くの海外からの来訪者の来日目的や心情が「分かっていない」のではないかと考え始めました。


      上海でもアニメ『君の名は。』が封切られ、爆発的な集客に関する報道や口コミが伝えられています。春節前後から新たな四ツ谷の須賀神社など新しい聖地巡礼の対象が増えることは間違いないことでしょう。前評判も高く、封切り前から既視感覚さえ感じていた人たちは、早々に日本渡航の手配を済ませているのかも知れません。一方で『君の名は。』は、いずれ航空機内サービスで視れば良いのではという余裕のある方々もいるようです。一方、DVDや機内サービスではなく、映画館に通って観てもらいたいと思うのは、こうの史代原作の『この世界の片隅に』であります。


      こうの史代が漫画アクションに連載していた『夕凪の街 桜の国』を単行本で読んだのは十年以上前になります。その後、麻生久美子・田中麗奈らが演じる映画を観てからも十年近くになります。原爆投下後の広島に住み続けながら、貧しい生活のなか、原爆の後遺症やトラウマに戦い続ける人たちを描いたある意味で神聖な作品でした。
      あまりにも高い評価を受けた作品のあとでの『この世界の片隅に』でしたが、肩に力を込めた神聖な世界ではなく普通の人たちの生活や世間に誘われます。夕凪の街である広島市郊外の漁村から軍港のある呉へ嫁ぐ主人公すず。実直な夫や双方の家族とのほのぼのとした世界。幼馴染の水兵や遊郭で働く貧しい出自のリンとの交流も含めて、等身大に描かれた庶民の暮らし、まさに世界の片隅の生活を細部に至るまで丁寧に積み上げていきます。積み上げた時間の長さを知らされただけに、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって多くの生命と記憶が短い時間で損なれたことを痛烈に感じます。ほのぼのとした世界が、瞬時に失われる酷さを感じました。長崎への原爆投下を描いた山田洋次監督の『母と暮らせば』にはある種のファンタジーが漂い、こうの史代の『この世界の片隅に』には強ばりのないリアリティを感じました。


      上海では映画館上映の機会が限定的ではないかと推定される『この世界の片隅に』ですので、呉や広島が「聖地巡礼」の対象になるとは一概に言えません。しかし、多くの人たちにも何とか作品に接する工夫をしてもらい、その高度なアニメ技法とともに庶民の粘り強さや向日性気質などを感じとって貰えればなあ、と思います。
      正月や春節休暇を日本で過ごす日本人や海外からの来訪者たちのために、この映画が出来るだけ長く上映され続けることを期待しています。仮に映画館へ行くタイミングを逸した場合には、原作の漫画単行本、或いは雑誌『ユリイカ』11月号の「こうの史代特集」で、その世界に接することも可能です。(了)


    2016.12.21

    五角場 【上海の街角で 井上邦久】vol25 (読む時間:約3分)


    • 10月某日、某所にて、上海D大学のC教授からじっくりお話しを聴かせて頂きました。
      スターバックスのマグカップを前に置き、雑談をすることを惜しむようにメインテーマを語り合いました。C教授が学会に発表される「大上海計画」についての個人授業という、とても贅沢な時間の始まりでした。
      「大上海計画」は、1927年から1937年に南京の国民政府が立てた上海都市現代化を目的とするものであり、その中心理念は民族の発展追求、その核心地域は江湾地区、今の五角場でありました。2010年頃に五角場を歩いたことを思い出しながら地図をたどると、時計回りに淞滬路・翔殷路・黄興路・四平路・邯鄲路の五本の道が形成するペンタゴンの中心が五角場。そして周りには経軸に国政路・国庫路・国和路などの「国」が付く道、横軸には政府路・政治路・政立路などの「政」を冠にする名前の道が沢山あります。2010年当時の政府路などは鄙びた路地のような小路であり、道路名の大きさとのギャップに思わず笑ったこともあります。


       教授の資料によれば、1927年7月に上海特別市政府が成立し、南京とともに中央直轄市になり、同年11月の「大上海計画」設計委員会成立に基づき、市政府大廈(現在の上海体育学院)、スタジアム(現在の江湾体育場)、プール、博物館(現在の長海医院)、図書館(現在の楊浦区図書館)などが1930年前後にかけて陸続として建設されています。


      「道路命名には国民政府が重視する用語が採用されています」、「建築物の設計に三か所の窓やアーチが採り入れられているのは、国民党が掲げる三民主義の影響ではないでしょうか?」という五角場散歩の印象記憶からの素朴な質問に、教授は前者の命名の件は間違いない、後者の設計理念は分からないという冷静な回答を為さいました。
      「同じ時期に、列強租界地を新設の東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そしてその囲いの外に自分たちの都心を造ろうとした、それが五角場である、という解釈は正しいのでしょうか?」という質問に、教授は「対、対、対」と力を込めて肯定されました。
      更には、その時期の中国経済は地域限定的ながら、高度成長とも言える発展ぶりであり、官僚資本家・民族資本家が力を蓄えつつあったことが、五角場建設などの「大上海計画」の背景にあったことも間違いなさそうです。
      また、医療中心やモデル学校設立や全国体育大会の開催など、孫中山が目指した「民生」の具現化とも言える先駆的な試みもあったことを教わりました。
      もちろん、明るく輝くばかりではなく負の側面もあったことは事実でしょう。ただ、これまで、1949年の中華人民共和国成立までの負の部分、暗部が強調されすぎていたのではないかと気づきました。
      1937年夏の第二次上海事変、そして日本軍部の戦線拡大派の抬頭により「大上海計画」は頓挫。そのまま歴史の遺物のような存在として眠り続けることになり、経済発展、国民教育、民生進歩といった近代中国の夢の実現は立ち消えになりました。
      そして今、上海副都心計画の重要拠点として五角場の拡大は凄まじく、商業や文教の核としての存在感を高めているようです。
      五角場の鄙びた小路に時代錯誤的な名前が残っていることには、「笑えない」歴史的な背景があることを改めて感じています。C教授の引率で五角場をまた歩きたいと思います。
      そんなことをお願いして、冷えた珈琲を飲み干しました。(了)


    2016.11.23

    神無月 【上海の街角で 井上邦久】vol24 (読む時間:約4分)


    • 今日、10月19日(水)は、陰暦9月19日。今年は9月、10月と続けて陽暦と陰暦がちょうど一か月ずれなので憶えやすくて助かります。昼間はまずまずの好天でしたが夕方から曇りがちになり、今宵一九夜の月の光は未だ見えません。
      今日は魯迅(周樹人)の命日にあたります。1936年10月19日、55歳の一生を上海市虹口で終えています。主治医の須藤医師の診断内容は竹内好『魯迅』に詳しく記されています。また井上ひさし『シャンハイ・ムーン』でも臨終のシーンが描かれています。一言で言えば、国民党や左翼文学者との激しい諍いの過程で、魯迅の身体はボロボロの状態であったと思われます。
      「今天晩上、很好的月光」で始まる『狂人日記』、自序に続く『狂人日記』に始まる14編の作品集『吶喊』には『故郷』や『阿Q正傳』も収められています。そして、『吶喊』に始まる小説と雑感文章により魯迅の存在感が高まったことに大方の評価は変わりません。
      魯迅は日本と中国の関係が決定的に悪化する前に逝去し、中国共産党が政権樹立後に、魯迅を中国現代文学の旗手として高く評価したことにより、長く神格化されてきた印象があります。最近になって、身の丈通りの魯迅を伝えようとする著作や展示が目に入るようになりました。一例として藤井省三教授の著作で魯迅と許廣平の関係を「女子大教師と教え子との不倫関係の同棲」とする率直な表現に触れ、虹口からハイヤーを飛ばしハリウッド映画を観に行っていたという有名なエピソードも再確認しました。魯迅記念館の研究職には魯迅の妻、朱安についての『私も魯迅の遺物です』という著作があります。この数年で記念館の展示も大幅に変わりました。朱安夫人の写真も展示されています。一方では、共産党新政権の要職に就いた許廣平女史は、魯迅の母親と正妻への送金を続けたという記述もあります。そして、ある人から「魯迅が革命後も存命だったら?」との問いかけに、毛沢東は「相変わらず陰でぶつぶつ不満を漏らしているか、とっくに批判されて消えていることだろう」と応えたという話を聴いたことがあります。


      あるベテラン教授から中国に関するテキストリーディングの指導を受けています。先週は、近代詩の先駆者の徐志摩の『你去』という詩を読みながら、中国語文法の基本を鮮やかに解明してもらいました。今週は、毛沢東の詩文、書のお話でした。その取りかかりとして、勤王の僧である月性の詩『将東遊題壁』を読みました。月性は西郷隆盛と入水自殺を遂げ、西郷は死に至らなかった。その友人の詩を西郷隆盛が大切にしていたことから、この詩が西郷作であると誤解した十七歳の毛沢東が同じような星雲の志を詩に残している、という繋がりでした。
              男児立志出郷関   学若無成不復還
              埋骨何期墳墓地   人間到処有青山
      人間(じんかん)到る処に青山(墓所)あり、という七言は良く耳にします。
      10月19日に毛沢東に関する指導を受け、しかも月性の詩を導入部として読んだことは、偶然とは言え、今日を命日とする魯迅に思いを馳せ、併せて本日を誕生日とする我が身の来し方を振り返る縁(よすが)になりました。


      本編も含めて、1930年代の上海を中心としたテーマで拙文を綴り、毎月不特定の読者の皆様にご笑覧願って足かけ3年になります。それ以前から「上海たより」「北京たより」そして「中国たより」と拠点の名を付した極めて個人的な発信を、毎月特定の方々宛てにお届けしています。二つの文章発信の場と姿勢が違うので、内容を極力重複させないように努めているつもりです。ただ、この神無月10月はその戒めを破って「中国たより『青島会』」と題する拙文との共用を以下の通りさせて頂きます。


      この夏、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2010年)が新潮文庫に入り、続いて同じ八月に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』が出版されて、ともに刷数を増やしているようです。
      日清・日露そして第一次大戦が流れとして繋がっていること、そして山東半島や青島がその繋ぎ目として重要な土地であることが改めて解明されています。
      二冊の本は、中高生に授業形式で話を進めるスタイルが共通しています。優秀な中高生が鋭い指摘や回答をしていることも共通しています。後書きで加藤さんは、中高生とともに中高年にもどうぞ、とお誘いをしています。
      「近代史、現代史を授業では習っていないからなあ・・・」という言葉をしばしば耳にします。何故、授業で教えないか?本当に教えていないのか?についてはよく分かりません。ただ、仮に授業での印象が少なくても、知る・学ぶ方法は色々あることを加藤さんは示しています。


      10月19日の夜も更け、高い空で月が光っています。(了)


    2016.10.20

    中日大辞典 【上海の街角で 井上邦久】vol23 (読む時間:約4分)


    • 長年お世話になり、ずっと身近に置いている書物は『中日大辞典』をおいて他にありません。
      最近では、電子辞典の普及で重くて大きな辞書とは縁が薄くなる傾向にあるのでしょう。また熱心に新語を採り入れて増補改版を重ねている『中華現代漢語詞典』のような便利な存在もあります。その他にも各種各様の辞書が出版されて必要に応じた購入ができる今、『中日大辞典』がどのように位置づけされているかについては詳らかではありません。しかし個人的な思い入れが深い辞典であることに変わりはありません。


      手元に置いている愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』には1968年2月1日発行、1971年4月1日再版発行と記されています。編者のことばとして、鈴木択朗編纂委員長は冒頭に「昭和初期以前に中国語を学んだ人にとって最大の悩みは教科書・参考書・辞書がすこぶる不備だったことである」と書かれています。その空隙を埋めるべく上海の東亜同文書院にて日中中国語教師により辞典編纂の準備が始められるも、敗戦によりカード約14万枚、語彙数にして7~8万語の資料が中華民国に撤収され、戦後・革命後に内山完造日本中国友好協会理事長と郭沫若中国科学院院長の仲立ちや周恩来首相の理解の下、1954年9月に引揚船興安丸で日本へ返却され、東亜同文書院の後継である愛知大学にて辞書編纂が再開され、更に十数年を費やして『中日大辞典』が完成されました。
      東亜同文書院の成り立ち、愛知大学の創立そして『中日大辞典』編纂の詳しい経緯については、藤田佳久愛知大学名誉教授による『日中に懸ける  東亜同文書院の群像』(中日新聞社)に詳しく、芥川賞作家の大城立裕氏(1943年に東亜同文書院入学)の『朝、上海に立ちつくす―小説東亜同文書院』(講談社・中公文庫)も実体験者ならではの描写がリアルであった記憶が残っています。
      また教師として、辞書編纂チームにも参画した坂本一郎先生は戦後に関西の大学教授のかたわら蝶理株式会社の中国貿易室でご指導をされていました。短い期間ですが謦咳に触れながら、とても偉い先生と聞いて遠くから燈台のように眺めていることが多かったことが悔やまれます。
      岩波書店から出ていた倉石武四郎氏の編纂による『ローマ字中国語辞典』はローマ字拼音で引く辞典というユニークなものでしたが、なかなか使いこなせずに弱っていました。そんな中国語学習の入門者に『中日大辞典』発行のこと、そして部数に限りがあり入手が困難であることが伝わってきました。1971年の秋の日、再版本が京都御所近くの彙文堂で入手できることを知り、大枚4,000円を握り締めて向かったことを憶えています。3畳一間の下宿屋の家賃が3,000円、そして一か月の生活費が1万円でしたから大きな出費であり、生まれてから一番高い書籍購入でした。しかし、大げさではなく沙漠の羅針盤のようなこの大辞典のお蔭で様々な学恩を貰いました。 東亜同文書院は南京同文書院を編入して、上海黄浦江左岸の高昌廟桂墅里に校舎を開設。辛亥革命後のいわゆる第二革命の内戦時代に破壊されるも一時的に長崎や大村の寺院や上海の共同租界での仮校舎住まいを経て、徐家匯虹橋路の新校舎を建設しました。全国都道府県から自治体の経費負担で各二名の推薦派遣学生を受け入れています。


      東亜同文書院は外地での日本人の為の中国研究、中国語研鑽の教育機関として著名でありますが、逆に中国人にとっての日本研究、日本語学習の学校として、弘文学院や東亜高等予備学校が著名であることを、譚璐美さんが白水社のHP連載を加筆された新刊『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社)で教わりました。
      東京市牛込区西五軒町34番地(現、新宿区西五軒町12,13番著)、江戸川橋交差点から神田川沿いにあった弘文学院には清末から民国にかけて7,192人の中国人が入学したとのことです。その中の一人、魯迅(周樹人)は弘文学院で二年間学んだあと、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)に推薦入学しています。
      東京市神田区中猿楽町6番地に所在した東亜高等予備学校は、年に1,000人から2,000人の中国人留学生が入学した学校で、周恩来・郭沫若・廖承志そして譚璐美さんのお父さんも学んだ教育機関です。1945年、閉校となりました。


      北京、上海そして日本で多くの大学生と交流してきました。日本語弁論大会への支援、集中講座などへの出講、個人的な相談など様々な形で若い世代の中国人や日本人と接しています。十九世紀末から始まった日本と中国の学生交流の足跡を学びながら、自らの若い時代の実践や体験を記録し、次の世代へより良い形でバトンを渡すこと、これが「活到老、学到老」の基本であり、目的の一つかなと思う今日この頃です。(了)


    2016.09.13
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