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コラム「上海の街角で」

米国から中国へ 【上海の街角で 井上邦久】vol37 (読む時間:約3分半)

    • ボストンからキングストン経由でプリマスまで、一日に数本だけ運行している郊外列車で行きました。まばらな乗客、小一時間で着いたプリマス駅は無人駅でした。1620年、メイフラワー号に乗った102人の「巡礼始祖」が上陸したプリマスはバージニアとともに北米植民の出発点とされ、聖地化されていると想像していましたが、海を前にした寂しい終着駅にはバスも案内所もありません。一台だけのタクシーを何とか捕まえ、「電車でプリマス観光?」と呆れ顔のドライバーの言うままに、野外博物館に連れて行ってもらいました。開拓時代の小屋や機織り場を再現した一種のテーマパークで、インディアンが歌い、農作業のフリをしているのを妙に痛々しく感じました。感謝祭は原住民と移住者との「友好協力」への感謝とも言われますが、今もなお一部の原住民は、感謝祭の当日を虐殺された先祖を追悼する「全米哀悼の日」としています。帰りの電車まで一時間余り、海を見ながら金子みすずの「浜はまつりのようだけど、海のなかでは何万のいわしのとむらい」と続く『大漁』という詩を思い出していました。


      ボストンが建設されたのは1630年、徳川幕府の創成期に当ります。それから1853年の黒船浦賀来航までの200年余りの出来事を、米中関係の研究や講演を続けている横浜在住の友人松本健三氏に学びました。松本氏は上海時代から、各地域の歴史や産業に横串を刺し、比較分析する手法を得意としています。


      別添の松本氏作成の米国中国関係年表にある通り、1776年の米国独立宣言から8年後に、早くも中国広州へ交易船を派遣していることに驚かされます。それに続く宣教師派遣、アヘン戦争中立対応、望厦条約(米国有利の不平等通商条約)、西漸政策(カリフォルニア併合)、捕鯨拡大などを背景にして、北東部の貿易・捕鯨業者らを支持層とするホイッグ党が勢力を得て、日本に開国を促す為のペリー艦隊の派遣に繋がります。


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      アマーストの閨秀詩人、エミリー・デッキンソンを描いた映画『静かなる情熱』には、主人公が自宅で「スプリングフィールド・リパブリカン」紙などの新聞を読むシーンが出てきす。記事をテーマにして家族で白熱した議論をする場面も印象的でした。鵜野ひろ子神戸女学院大学教授が『現代詩手帖』8月号に書かれた文章によれば、15歳のエミリー・デッキンソンはボストンで開催された「CHINESE MUSEUM」(1844年マカオでの通商条約会議に同行した人が持ち帰った文物を展示した「中国展」)の見学を通じて東洋への眼を開いています。次に新聞で日本の鎖国制度、難破した捕鯨船員の日本での処遇などについても読み、マサチューセッツ州議会議員、国会議員であった父親経由で、日本の団扇などの文物や植物標本を入手しているようです。ペリー提督の通訳官を務めた宣教師サミュエル・ウィリアムズが採集した日本の植物も、父親は娘の為に入手して温室まで敷地内に造ったとのこと。エミリー・ディキンソンは他国の方針を無視する米国の外交政策に違和感を覚えていたとされ、温室は父の属する党の政策に批判的な娘への懐柔策ではないかとされています。今も昔も、父親は娘に「従順」でありますから鵜野教授の分析に同意します。夏のデッキンソン邸宅の広い庭の一隅に、もしかすると日本由来の植物が生えていたのかも知れません。


      米国から帰国後、術後検査や出講準備を進める中で、台風以外にも衆議院議員選挙や中国共産党大会などで新聞も騒々しいことでした。その中で、正に台風の眼とも言える北京に長く住んでいるCW(China Watcher)がいます。日本各紙よりも早く、正確で、彫りの深い発信を得意とするCW氏との連携が復活したので、幅広い観点から動きを眺めることができました。中国の人事動静について、毎日や読売が大胆な予測記事を出して外れ、日経と朝日は市井の中国通の話を聴くような無難な記事を続けた結果、他紙のような恥を掻かなくて済みました。全体として三国志演義のような人的抗争や属人分析を好んできた日本の読者も、一方では対中国無関心派が増え、もう一方では人事だけからの判断の域を脱して高度化してきたのではないかと思います。その観点から、産経新聞の記事に円熟味を感じました。そして従来なら「香港情報」が珍重され、スクープや内幕物の情報源となっていましたが、近年「香港の大陸化」により、寸鉄は研ぎ澄まされず、雨傘でささやかな抵抗している状態のため、斬新な「香港情報」が減っているようで残念です。


      (了)


    2017.11.06

    祝賀受賞 【上海の街角で 井上邦久】vol36 (読む時間:約2分半)

    • 9月29日、中日国交正常化45周年の記念日に、東華大学教授の陳祖恩先生ご夫妻は日本駐上海総領事館に招かれ、「両国の相互理解及び友好親善に寄与してその貢献顕著」と記された表彰状を受けられました。この表彰を大きな栄誉とされた陳先生からは「中日民間の友好交流に尽力していく」と決意を届けていただきました。


      陳祖恩先生は、日中交流史を長年にわたり調査研究され、とりわけ日本の幕末、中国の清末からの交流についての書籍出版も多く、交流史跡の調査や学会活動の為に度々来日されています。また陳夫妻は長年に渡り上海歴史散歩の会の顧問として指導引率をされており、身近でその温かく真っ直ぐなお人柄に接した上海在住者も多いことと思います。
      この場を借りて、心よりお祝いを申し上げます。


      古北路のご夫妻御贔屓の「紋兵衛」で偶然にお見掛けし、刊行されたばかりの書籍(高綱博文教授著作の中国語訳)をプレゼントしてもらいました。東京での道案内は、「中国人の来ない面白い場所へ行きたい」という陳夫妻の要望に従って、品川神社から旧東海道品川宿を歩き、そば処「いってつ」で喜んでもらいました。11月の大阪案内では福沢諭吉の生家跡などの福島区近辺を歩いたあとで、「まき埜」のスダチ蕎麦を賞味願うつもりです。蕎麦が取り持つ、蕎麦好き同士のご縁もあり、長いお付き合いと言いますか、蕎麦味噌のように味わい深く実の籠った交流を続けさせていただけたら幸いだと思います。そして、まさに受賞後の陳先生のお言葉の通り「民間交流」に力を尽くしたいものです。


      この時期に「受賞」と言えば、ノーベル賞であります。今年の日本では文学賞の話題が中心となり、情報の洪水状態ですが敢えて若干の屋上屋を重ねさせてもらいます。カズオ・イシグロは長崎生まれの英国人であり、英国人にしか書けないであろう小説『日の名残り』の描写が、アンソニー・ホプキンス主演での映画化の成功とも相まって強く印象に残っています。英国伝統の執事という控えめな職務、その分に徹した、そして分を越ええない男の「思い込み」の強さがほろ苦い味となっていました。


      しかし本欄では『私たちが孤児だったころ』に触れねばなりません。長崎・上海・英国を繋いで、アヘン戦争から上海事変を歴史背景とした長編です。和平賓館北楼でダンスに興じた欧米人が、虹口の方面で交差する日本軍と国民党軍の曳光弾を「見物」する理不尽なシーンをうろ覚えしています。


      10月12日付けの朝日新聞に、下司佳代子記者によるノリッジ発の「イシグロ文学、母校で語る」と題する記事が掲載されています。


      ・・・2000年出版の小説「わたしたちが孤児だったころ」では例外的に、1930年代の上海という舞台設定を先に決めたことも明かした。日本人の祖父が上海で豊田紡織廠(当時)の立ち上げを担ったため「祖父の当時の写真を見てこの時期の中国にとても興味を持った」と説明した。・・・


      祖父の石黒昌明は東亜同文書院の第5期生(1908年卒業)、伊藤忠商事から豊田紡織廠取締役。父の鎮雄は1920年上海生まれ、明治専門学校(現在の九州工業大学)に電気工学を学んだのちに海洋学者として英国へ。母の静子は長崎にて原爆により負傷。以上、長崎・上海との絡みを補足します。


      (了)


    2017.10.14

    猶太人 【上海の街角で 井上邦久】vol35 (読む時間:約4分)

    • ボストン郊外にも杉原千畝の顕彰碑があるようだと、茨木市土曜クラブの友人から以下のサイトの連絡(探索指示?)がありました。


      http://hinode.8718.jp/japanese_sugihara_tiune_monument.html


      土曜クラブの8月例会はクラブ会員のF氏が「ユダヤ」について話されることを思い出し、例会に出席できない代わりに顕彰碑を探してみようと動き出しました。居候先の最寄り駅からグリーンラインCという路面電車で終点まで行けば、チェスナットヒル地区だから何とか分かるだろうと、いつものように五感頼みの横着(スマホも機能不全)。電車を降りて一寸迷った後、バス乗り場で学生風の男女にユダヤ教EMTH教会への行き方を訊ねました。幸運なことに男子学生から「15分待てば来る51番のバス。僕たちも教会前の同じ停留所で降りる」と言われました。バスはかなりの速度で20分ほど走った頃に、女子学生の手前からかとても親切な男子学生に声を掛けられ目的地に無事到着。日本風の灯篭が並ぶ一角に顕彰碑が整備されていました。折しもボストンでは、反ナチズム、反白人至上主義の大規模な行動がありましたが此処に限らずユダヤ教会の周辺は静かでした。


      或る日、最寄り駅近くの食堂でブランチを摂っていたら、隣の席に座った初老の紳士が話しかけてきました。CHALPINと名乗り、医学の研究者であり、苗字を聴けば分かる通りロシア系ユダヤ人で1800年代に一族はこの町に移り住み、長くユダヤ人だけの集落で住んでいた、と問わず語りが続きました。苗字を聴いてもユダヤ人と推測できるはずもない東洋人に、何故に自分からユダヤ人と言い出すのかなと訝しく感じました。そして上海へ貴州省から出稼ぎにきた青年が、此方から聴きもしないのに「私は苗族です」と照葉樹林帯地域に住む少数民族の名前を口にしたことを思い出しました。なお、CHALPIN氏の方は隣席の東洋人の苗字を聴いて、「DANIEL INOUYE!」、「日本人!」と喜びました。著名な日系議員の一族に会ったと夢想したかったかも知れません。


      留守宅に土曜クラブでの講演に使われた沢山のユダヤ関連資料を届けて貰いました。その中に、「もう一人 日本のシンドラー」と題する日経新聞記事(1997年4月16日文化欄)のコピーがありました。筆者であるジョン・ステシンガー教授は1941年3月、13歳の時、シベリア鉄道による逃避行中、ドイツ大使館から帰任途中の真鍋良一氏(元東海大学教授)に親切にしてもらった。何とか上海に定住したものの、ドイツからの圧力もあったのか、日本統治者はユダヤ人難民をゲットー(隔離地域)に強制収容した。上海領事として赴任していた真鍋氏に頼ったところ在留延期証明書を毎年発給して貰えてゲットー収容を回避できた。更に真鍋氏は上海交響楽団のユダヤ人メンバーにも演奏が続けられるように手配してくれた。敗戦後ステシンガー青年はハーバード大学に留学してキッシンジャーやブレジンスキーと机を並べ、国際関係論の学者になったが、真鍋氏は漢口領事として中国人捕虜への虐待を止められなかった罪で巣鴨プリズンへ、その後も外交官に戻ることはなかった由。


      上海虹口の猶太記念館に、欧州でユダヤ人難民にビザを発給した中華民国の何鳳山や杉原千畝についての顕彰展示がありましたが、真鍋良一の名前を見かけた記憶はありません。


      NHK・Eテレのテキストがベストセラーとなっています。九月の「100分de名著」(毎月曜日午後10:25~10:50)の『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』のテキストとして仲正昌樹金沢大学教授が書き下ろした文章はとても簡潔です。裕福なドイツ系ユダヤ人の家に生まれて、ハイデッカーやヤスパースに師事したハンナ・アーレントの半生の闘いを描いた映画が上映された数年前、一種のブームがおこり本連載でも綴りました。


      http://www.shanghai-leaders.com/column/life-and-culture/inoue/inoue010/


      しかし今回表紙に「考えることをやめるとき凡庸な『悪』に囚われる」と書かれたテキストが売れ、アーレントの著作が平積み販売されているのは映画化された時の知的ブームとは異なるような気がします。 ・・・人々の間に国家への不信、寄る辺ない不安が広がっているのは今の時代も同じではないでしょうか。政情不安、終わりの見えない紛争、そして難民問題。世界はどこへ向かおうとしているのか、それを動かす社会の仕組みがどうなっているのかということについて、多くの人が「教科書的でない」説明を求めています。 日本も例外ではありません。今世紀に入った頃から、政治について関心があり、「かなり分かっている」つもりの人たちでさえ展開が読めないことが多くなり、言い知れぬ不安を感じる人が増えている気がします。・・・  (上記テキスト7頁)


      悲観でも楽観でもない仲正教授の文章のサワリです。


      (了)


    2017.09.23

    ボストンの老陳 【上海の街角で 井上邦久】vol34 (読む時間:約3分半)

    • この時期の俳句の季語に「今朝の秋」があります。立秋の朝のことを表すようです。立秋が過ぎても朝から暑いと実感が湧かない季語だと思います。昨今の中国には、虎が居なくなったと思っていたのに、「秋老虎(立秋後の残暑)」は依然として吠え続けている模様。できれば秋の虎も捕まえて欲しいものです。


      7月下旬から滞在中のボストンは、ほぼ青天が続きます。気温が30℃近くでも木陰の芝生では、涼しい風が吹き凌ぎやすく快適です。緑豊かなハーバード大学のキャンパスでは栗鼠まで賢そうだった、とは四半世紀前に訪れた先輩の言です。ところが、個人的な印象では、ハーバート大学の栗鼠は賢く見えるだけでなく中国語を話しそうだと言いたくなります。キャンパスには中国からの留学生だけでなく、視察団や観光客が続々と詰めかけており、中国語に接するには良い環境です。


      ハーバード大学に行かなくても、中華街まで出向かなくても街中で頻繁に中国語を耳にします。とりわけ、今回滞在している地域では、とても多くの中国系の人と会い、中国語を使う毎日が続いています。


               ボストン中心部から電車で西へ15分ばかり進むとKenmore駅。路面電車の分岐点でもあり、Boston Red Soxの本拠地であるFenway球場最寄りの駅でもあります。そこから西に広がるBrookline市は交通、治安、教育施設などに恵まれており、隣接するLongwood Medical Areaでの研究や仕事に通うのに便利なせいか、従来から外国人が集まる地域だったようです。


      この地域の小学校、スーパーマーケットなどで60歳半ばの中国人を多く見ます。その中の一組の陳氏夫妻と顔なじみになり、或る日、陳氏から部屋に寄って行けと誘われました。山東省の出身で息子夫婦が優秀であり、ボストンに留学、孫のケアと家事目的で老陳夫妻がボストンに呼ばれて2年になるそうです。住環境が良い分だけ家賃が高い、若夫婦は多忙だがベビーシッターを雇う習慣も資金もない、という話から愚痴とも諦めともつかない話の流れになりました。奥さんは孫を学校に送ってから、スーパーマーケットで「市場考察」と小さな買い物をしながら知り合いを増やしている。老陳さんは日がな一日、読書と昼寝と調理で過ごし街にはあまり出ない、とのこと。山東の故郷の話題や「人到中年、男は辛いよ」の吐露、孫が優秀なのに9月生まれなので小学校進級が来年になる不満などの話し相手を務めました。言葉の端々に「来たくて来たのではない」感が滲んでいました。従来からの華僑・華人の概念や規定は見直す時期に来ていることは明らかですが、老陳のような中国人はどんなカテゴリーに入るのかな、孫に手が掛からなくなれば帰郷するのかな、引き篭もりの異郷での余生は退屈だろう等の余計なお世話を頭の中で考えていたら、奥さんがマーケットでの小さな買い物を提げて戻って来ました。


      「あらあら、なんで白開水(白湯)しか出さずにどうしたの、お茶を淹れますからゆっくり話していきなさい」と言ってくれましたが、初めてのお宅でお茶を頂くのは野暮なので「また次回に」と辞去しました。


      米中政府の政治的駆け引きのカードの一つに中国人留学生の米国への出国制限策が知られています。米国政府が政治的経済的な圧力を掛けてくると、米国の大学経営を支えているのは中国であることを知っている中国政府は揺さぶりを掛けてきます。国費留学が圧倒的だった前世紀とは異なり、私費留学を希望する若者の「対策」は?


      老陳のような1950年前後生まれの人たちは、留学はおろか大学受験への門も閉ざされた世代であり、余生を優秀な次世代、次々世代の為に捧げながら異郷に暮らしているようです。そんな人たちは、昨今の米中摩擦をどのように眺めていることでしょうか。


      最後に中国語がまったく聞こえてこない場所が少なくとも一つある事を伝えます。それはFenway野球場でして、まさに「アメリカ」の空間と時間が流れます。毎年8月15日は甲子園球場での黙祷に参加してきましたが、今年はSt. Louis Cardinalsとの一戦の外野席で米国国歌を聴き、野球ファンに馴染みの『ボールパークへ連れてって』の合唱、そして8回攻撃前には『Sweet Caroline』を全員で腕を振って大声で歌いあげます。父親のJFKを喪ったCaroline Kennedy(前駐日大使)をイメージして、1969年に発売され大ヒットした曲です。JFKがちょうど100年前に生まれた家は、Brookline市に記念館として開放されており、散歩がてらに訪れました。周りの家と同じような造りのごく普通のたたずまいでした。


      (了)


    2017.08.24

    優しさ 【上海の街角で 井上邦久】vol33 (読む時間:約3分)

    • 「一つとして同じ場所のない地形に人は住み、独自の文明文化をつくり出す。多くの国がほこりうる『歴史』は、そんな人々の蓄積と時間の成層の賜物であるが、〇〇には歴史を誇れる基礎もなければ、文化を形成する人間の集団もなかった。しかし突然『開国』という変革がもたらされる。時間と文明が〇〇という土地に触れあった瞬間、火花を散らしたのだ。歴史ももたず、誰もがスタート地点にたてる『〇〇』という時空間に住まう人は優しい。強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ。」


      冒頭から他著の引用で恐縮ながら、酷暑を言い訳に手抜きをしたと叱責されても、甘んじて受けさせていただきます。さて引用文では「〇〇」と伏字にしましたが、原文には何と書かれているのでしょうと、国語か歴史の試験のように問えば、上海在住の各位は「〇〇は、たぶん上海か横浜だろう」と即答されるでしょう。


      ただ上海には県城もあり歴史が皆無とはいえません。また住まう人が優しいか?については個々の体験や感受性で異なってきます。そして「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶が無いか?」についても大いに疑問があるので、〇〇は上海ではなく、横浜が正解であろう」と回答される諸賢が多いことでしょう。


      『横浜大桟橋物語』(客船とみなと遺産の会 編:2014年)という本があります。広角度に視点と事例選択を拡げ、バランスの良い丁寧な編集で作りあげた書籍の横浜についての冒頭文からの引用でした。


      横浜の優しさ、ということでは次のコメントも印象的です。
      「基本的に(横浜)ベイスターズファンは優しい、本当に優しいですよ。(中略)あんなひどい状態でも応援し続けてくれるんですから。
      辛抱強いというか、本当に不思議というか・・・好きなんですよね。」
      という月刊ベイスターズファン元編集長の岸野啓行氏の発言を好著『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』(村瀬秀信 双葉社)に見つけたものです。


      実際に美しく便利に整備された横浜の街で接する人たちは、大声で自己主張することも少なく、さりげなく機能やサービスを提供しながら、各自の好みの生活を維持しているように見受けられます。


      ただ、優しいという理由に「強引な手段によって塗り替えられた歴史の記憶がないからだ」と断定されると、そうとばかりは言えないのではないか、と疑義が生まれてきます。先の大戦末期に、強引な手段で(神奈川県警、笹下拘置所などで)個人や中央公論・改造社を抹殺した「横浜事件」を今こそ思い起こすべきではないか、と思うのです。治安維持法の運用強化、言論統制による異議申し立てへの封じ込めが行われ、予見逮捕と拷問による自白強要が続き、体力の限界に至ってから保釈され直後に死亡した人もいます。「横浜事件」のきっかけの一つは、細川嘉六氏の論文完成慰労会が富山県泊温泉で行われ、浴衣姿の編集者らを撮った旅の思い出写真を「党再建の共同謀議」の動かぬ証拠として、神奈川県警が中心となって捜査した事にあります。


      戦後、一部のグループが無罪認定と補償を求めて起こした訴訟も「証拠消滅」を理由に門前払いが続きました。遺族ら支援の会による粘り強い行動により、2009年3月30日になりようやく横浜地裁で「免訴」「実質無罪」の判決が出て、一矢を報いることができました。


      春からの国会で、強引な形で「共謀罪」の法制化が進められた頃、古くから横浜の文化を担う有隣堂や高橋書店を巡り、「横浜事件」に関する本の売れ行きを確認したところ、一冊も置いていないことに愕然としました。書店の人も此方の意図を理解しつつ、版元での絶版が多いことと購入の動きが乏しいことを口にしていました。国会への不満と「横浜事件」が地元でも結びつかないのは、「優しさ」ではなく、「歴史の記憶」がなくなっているということでしょうか?


      (了)


    2017.07.30

    日中の交流 【上海の街角で 井上邦久】vol32 (読む時間:約5分半)

    • 神奈川大学での学会出席のため、上海から横浜に来られた珈琲好きの先生と休日の午前をご一緒しました。ホテルからほど近い陋居にお越しいただき、濃い目の珈琲を淹れてから、忌憚なく色々な話の花を咲かせました。


      まず、前回3月末の来日土産に頂いた『顔梅華 口述歴史』(上海書店出版社)の御礼と読後感から今回の交流が始まりました。上海市文史研究館口述歴史叢書のシリーズで、著名な国画家というよりも、戦前の「連環画」の売れっ子といった方が通りの良い顔梅華さんが語る自分史を、先生が聴き取り原稿に仕上げた一冊です。顔氏に限らず、口述歴史の難しさは、どうしても主観的な側面が滲み出てくる点ではないか?という点を指摘しました。功成り名を遂げた大家の隠された部分の扱い、有体に言えば、現状に満足されている高名な老人たちにとって、触れて欲しくない側面裏面があっても、それを抉る事を期待するのは難しいでしょうね、という率直な感想を伝えました。ご本人の口述でなければ知りえない事例や人物評などはとても貴重であり、それを丁寧に聞き書きされた労作であることを十二分に理解した上で、書生論を口にさせてもらいました。「ただ、それだけではない」という点を意識しながら口述歴史を読みつつ、第三者が書いた別角度からの評伝等にも触れる姿勢が大切であろうと理解しました。蒋介石の何番目かの夫人、蒋介石が宋美齢と結婚するために正妻の座を失い米国留学に追いやられた陳潔如女史が口述したと言われる記録があります。様々な事情で長く公刊されなかった時期を経て,1992年にようやく台湾で出版された『陳潔如回想録』の例を挙げるまでもなく自叙伝の読み方は難しいものです。


      次に今年2月に勉誠出版から出された『戦時上海のグレーゾーン 溶融する「抵抗」と「協力」』堀井弘一郎・木田隆文(編)が話題になりました。21名の研究者が夫々の専門分野における上海のグレーゾーンについて健筆を振っています。序言で堀井氏は、1937年から1945年の戦時下の上海に於いて、日本軍側の「支配」と中国側の「被支配」があり、被支配側の内部にも「協力」と「抵抗」の異なる立ち位置があり、それもまた一枚岩ではなかったという「グレーゾーン」の定義をしています。関智英氏による「汪兆銘政権の人々」の複雑に絡んだ各グループへの精緻な分析、上井真氏の「劉鴻生の戦時事業展開」では、民族資本家が如何にして人と財の継承に腐心したかの考察、武田泰淳「上海の蛍」を手掛かりにして「中日文化協会上海分会と戦時上海の翻訳事業」について丹念に再確認された木田隆文氏の文章など、それぞれが一冊の本になりうるようなテーマがダイジェストされていました。長い間、赤か白か、紅か青かと二極分化して捉えてきた古い認識の蒙を啓いて貰えました。「政治・経済」、「社会・文化」。「言論・メディア」の三章に仕分けされていますが、239頁という限られた紙幅のなかに、広範なテーマを盛り込むにはかなりの力技が必要だったことでしょう。下世話な表現で恐縮ながら、大阪でのたとえ方で言えば、「てんこ盛りのかやくご飯」をオニギリにしたような印象が少し残りました、と先生に伝えた時、その温顔はそのままに、眼光が鋭くなった気がしました。そして交流とは、同じ平面で対等の立場で行われるのが本来の望ましい形でありながら、この書籍の各文章が研究対象とした時代は一方からの「直流」が大きな電位差で迸る中での「協力」であり「抵抗」であったという域まで想像力を逞しくすべきだと思い至りました。


      先生が上海に戻られた後に、2017年6月25日初版発行と奥付にある『上海の日本人街・虹口 もう一つの長崎』という賑やかな表装の本を偶然見つけました。著者は長崎県立シーボルト大学で教鞭を執り、「新長崎市史」の編纂に参画された横山宏章北九州大学名誉教授でした。長崎と上海を結びつける事例は多くありますが、この本は虹口をもう一つの長崎に位置付けることが主題の様でした。非常に多くの文献や資料を渉猟され、それを丹念に整理されていると感じました。巻末注の項には、珈琲好きの先生による日中交流史の著作からの引用が何回も出てきました。この本文中に、二人の中国人研究者の名前が記されています。一人は「劉建輝は、日本における【魔都】という言葉の使われ方に批判的である」(25頁)、もう一人は「上海における日本人街研究の第一人者である陳祖恩は、長崎人の活躍を次のように結論付けている」(55頁)という紹介に留めています。


      京都の国際日本文化研究センター(日文研)は今年創設30周年を迎え、磯田道史、呉座勇一ら気鋭の研究者の参画もあって活性化しているとの話を聴きます。6月13日に開催された第311回日文研フォーラム「筆談で見る明治前期の中日文化交流」(発表者:劉雨珍南開大学教授。日文研研究員)のコメンテーターとして登場した、日文研副所長の劉建輝氏はペリー来航時に翻訳官として随行した羅森から始まる日中交流について卓見を淡々と述べながら、一筋縄ではない各時代の日中間の交流の裏面や弱点を抉られていました。


      劉建輝『増補 魔都上海 日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)は、2000年にこの本が出された時、上海研究に一つの新しい風が吹いてきたと感じた(海野弘)と評された著作です。


      …上海は一九二〇年代にある日本人の「不良」作家によって「魔都」という異名を得た。以後この名は上海というさまざまな「顔」が錯綜する空間をよく表す言葉として、ほとんど陳腐になるまでさまざまな人に引用されてきた。そしてその喚起されたイメージはしばしば上海と関係した人びと、とりわけ日本人の心象風景の一つにさえなったといえる。…上海がはじめてその「魔性」を現出したのは、けっして二十世紀に入ってからではなく、その起源はむしろ遠く十九世紀の七〇年代にまでさかのぼる。…(劉建輝 前掲書165頁)


      上記の横山氏も一部を引用している「魔都」の曖昧なイメージを鋭く劉氏が抉った文章です。


      此処では「魔都」よりも印象に残った、未来に向けての劉氏のメッセージを引用します。…上海、また上海人自身も「過去」と「未来」の間を揺れ続けているが、すでに五万人を超える長期滞在者を擁する日本、また日本人が、「過去」を背負いながらも「未来」へ向けて、いよいよ新たな「伝説」を作り出さなければならない時期に差し掛かっていると言えよう。その作業こそが、いま一度有意義な「他者」として上海と相対するきっかけとなっていくに違いない。…(前掲書292頁)


      珈琲好きの上海の先生からの教えを踏まえて、「他者」として対する時、初めてフラットな交流が始まる、という基本姿勢に立ち返りたいと思います。


      (了)


    2017.07.06

    接続性 【上海の街角で 井上邦久】vol31 (読む時間:約5分)

    • 3月下旬、第115回の華人経済・文化研究会で、今年も「中国。この一年」と題する報告をしました。2013年から毎年3月に同じタイトルで定点観測を意識したお話をさせてもらっています。今年は、次の三項目を柱にしました。


        (1) 北京の掏摸(スリ、小盗)が減った
        (2) 「海」への進出が目立った
        (3) 華南の産業構造改革が注目されている


      (1)人民日報以外の多くのメディアに寄稿や出演をしている、著名なジャーナリストの陳言さんから教わった話です。最近の北京では人が外出しなくなった。外出しても現金は少ししか持っていない。だから掏摸の採算性が悪くなり、掏摸の数が減少した、ということです。もちろん陳言さんがデータを公安警察で調べたわけではなく、彼独特の表現方法で、大気汚染・宅配サービスの急成長・モバイル決済の急拡大などを分かりやすく指摘したわけです。
      自動販売機が急拡大していること、自動販売機の盗難が激減していること(モバイル決済のため、販売機の中には現金がない)と同じ理屈です。


      (2)大陸国家であった中国が海洋国家に急激に変貌しています。沿岸警備船舶の増強と人民解放軍における海軍の地位向上(それも従来の北洋艦隊優先から南洋艦隊の重視へ)世界の海運物流市場で圧倒的なシェアを確立し、ギリシャ、パキスタン、スリランカ、ジブチなど世界各地で港湾拠点の確保を推進中。旺盛な魚需要を満たすための遠洋漁業船団の急膨張(魚の消費量も、漁船20万艘も断トツの世界一)。海軍・海運・海外拠点・漁業すべての面での「海」への進出が顕著となった一年でした。


      (3)歴史的にも開明的であり、東南アジアなど海外に開かれた土地柄である華南。海外進出の伝統の担い手である華僑の故郷としての華南。従来から国有企業比率が東北や華北に比べてとても小さい華南。その華南では1992年以降、深圳を中核とする「特区」としての成長と巨大なサプライチェーンの構築が継続されてきたのは周知の通りです。この基盤の上に、活発なR&D投資による新産業の創生気運が党・政府の政策と相まって醸成されてきました。そこへ米国発祥のメイカー・ムーブメントの聖地としての深圳への投資人気が集中し、過剰なまでの期待が寄せられています。


      以上のような切り口で、それぞれの具体的な事例を挙げて、中国各地からの湧水が集まって川になり、その水がナイヤガラのような瀑布ではなく、赤目四十八滝のようなカスケードを形成していることを私見も交えて報告しました。
      恣意的な情報処理や世界的な視野から中国を捉えていない反省が残りました。
      五月になって読んだ新刊に『「接続性」の地政学』パラダ・カンナ(原書房)があります。副題として「グローバリズムの先にある世界」とあります。
      1977年インド生まれで、現在シンガポール国立大学上級研究員の著者は、従来から世界経済フォーラムにおける次世代リーダーの一人と見做されていましたが、CONENECTOGRAPHY Mapping the Future of Global Civilizationと題する原著により、更にその評価を高めているようです。
      日本では、尼丁千鶴子・木村高子両氏の滑らかな翻訳で出版されるや否や、多くの書評に取り上げられ書店に平積みされています。多くの方が既に手に取られていることと思いますが、屋上にミニ鳥居を重ねるような私見と印象を以下にメモします。


      (1)サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で冷戦後の世界を捉えなおし、長く一つの標準として語られてきた。しかし、その標準だけでは冷戦終結から四半世紀が過ぎた現在の大きな政治的変容や技術的変革を説明できなくなった。パラタ・カンナは「文明」に代わって「接続性」を強調。


      (2)新たな標準はサプライチェーンであり、グローバリゼーションの未来を語るのは「接続性」の度合いである、としている。


      (3)経済が深く相互依存している世界のシステムの内実を解明して、表面的には政治的、軍事的に対峙しているように見える国家間の緊張した外貌とは異なる経済と技術の連携を説明。この点でかなり楽観的な印象が残る。


      (4)この新しい世界を組み立てているのは中国であり、中国は新植民地主義者でなく新たな重商主義者である。経済合理性に合わない「領土」や「扶養家族」を増やす気がないとする。孫文が『三民主義』の中で「中国は列強の植民地ではない。(インドのような)植民地にもしてもらえない半植民地である」と喝破したことを想起し、孫文の曾孫たちがアフリカや南米を植民地にする気がないことに気付く。


      (5)中国の華南地区の「特区」に着目し、華僑の存在に過剰なまでの可能性を期待している。・・・中国が4000万人の華僑の一部に二重国籍を認めれば、それは国内に新たな優秀な人材を呼び込み、高齢化する人口に活気をもたらすきっかけになるだろう・・・(上巻97頁)


      (6)インフラとサプライチェーンについての記述が繰り返してなされている。通関手続きを半減すれば、貿易量は15%、GDPは5%上昇するが、輸入関税撤廃はGDPを1%上昇させるだけとか、中国の可動式の深海用掘削プラットフォームであるHYSY-981は、今日の地政学においては移動可能なサプライチェーンの島であるといった具合。


      (7)「マラッカの罠」回避の為、中国はタイのクラ地峡運河構想、ミャンマーやバングラディッシュの港からの陸路建設、北極海航路開発に熱心。


      グローバルという言葉が日本にもたらされて半世紀以上が過ぎていますが、未だにカタカナ表記のみで、中国語の「全球」のようには、日本語の適訳がありません。それでいながらグローバルという単語が独り歩きして、頻繁に使われています。しかし、グローバルとは何ですか?という質問をすると返答は色々です。その解を探す意味でも、この本はグローバルというものを逆照射しているので、国際化や跨境化(ボーダーレス)とは異なる視点が参考になりました。
      「真水もて熱帯魚飼うセオリスト 己の次に中国を愛して」という岡井隆の有名な短歌にもある通り、中国に対しては好悪両極の評価をしがちな日本人と比べて、インド人は「中国とは文化も価値観も違うけれど、しっかり中国のことを把握する価値はある」という覚めた(醒めた、冷めた)見方ができるようです。世界を実地に歩く著者のカンナ氏もその一人であり、実に多様な中国を歩いて、知って、考えているようです。


      カスケードを発見するだけでなく、全地球的な見地から源流と下流域を分析することが大切であることを学びました。来年3月の定点観測は少しだけ深みのある報告ができるかも知れません。


      (了)


    2017.05.21

    清明穀雨 【上海の街角で 井上邦久】vol30 (読む時間:約3分半)

    • 国家統計局都市司の縄国慶高級統計師は、2月の消費者物価が前期比で0.2%下落した特徴として、1)2月の全国平均気温が例年に比べて明らかに高く、生鮮野菜の生長に有利となり、市場供給が充足した、2)春節後の需要が弱まり、卵・豚肉・鶏肉価格が下落した、3)春節後の外出・観光人数が減少し、航空券代・旅行社手数料・旅館宿泊代が下落した、点を挙げている。


      日中産学官交流機構第19回中国塾での田中修塾頭による定例経済報告からの抜粋です。暖かい2月、その後の寒い3月を経て清明節の頃からは徐々に天候も安定してきました。二十四節季の清明から穀雨(太陽が黄経30°に達した時とされ、日本中国とも今年は4月20日。昨年の中国では4月19日23時29分だった由)の間は仲春から晩春の季節で、農耕作業が繁忙化するころであります。日本の中国地方の山間に住む母親からも苗代作りのたよりが届きました。気が付けば、一年のほぼ三分の一が経過し、日本では新年度が始まり桜の開花とも相まって、新規の気分が満ちて来ます。


      端午節、七夕節が日本に伝来して色々な変容をしながらも定着していることに比べ、清明節に必須の墓参りの習慣は日本には縁が薄く、沖縄や中華街以外では寡聞にして知りません。


       清明時節雨紛紛
       路上行人欲断魂
       借問酒家何処有
       牧童遥指杏花村    杜 牧『清明』


      上海では、清明節に墓参りとともに草餅を食べる習慣も盛んで、福州路などの老舗の「青団」はこの時期の売れ筋です。花より団子、団子より杏花村でお酒をもとめたい向きの言い訳には、杜牧の詩が便利で、『清明』はこの時期に、人口に膾炙されます。
      清明節前後には、上海のスタッフ達に「掃墓(sao 3mu4、墓参り)は何処へ?」と訊ねました。上海旧市内と応える人はほとんど居らず、昆山です、とか黄山ですとかの返事が多かったです。シティボーイやガール達も、多くは何代前かに上海へ移住してきた人たちの子孫であり、先祖の墓は上海以外の各地に所在しています。そしてスタッフ達もこの時期だけは先祖を敬い、自らのルーツを意識するようでした。
      いささか自己満足のきらいはありますが、各地のスタッフ達との交わりのなかで、「你好+1」を心がけていました。「こんにちは」の挨拶だけで終わらせず「+1」の個別の話題を作るようにしていました。色んな話題の中で、快く反応があり印象に残ったのは「子供」と「先祖の出身地」についてでした。


      清明節に里帰りした畏友のC弁護士からお土産に二枚の写真を頂きました。壁に墨書された族規(一族の規則)十項目と家訓十項目の写真には、目指すべき姿勢と避けるべき戒めが並んでいました。一見すると「言うは易く」、実際は「行うは難い」この教えを墨守しているであろうC家一族からは、虎も蠅も出ていないと想像しています。Cさんは久しぶりの故郷で、祖先と「会話」し、一族の規則や家訓をあらためて「勉強」してきたとのことです。
      宮本常一の名著『家郷の訓』を持ち出すまでもなく、日本にも家訓やそれに類するものがありましたし、今でも残っているでしょう。二昔前までの日本のオフィスには、しばしば金融関連商品のセールスの電話が掛かってきました。丁重にお断りする時に「我が家には家訓があって、株も不動産投資もできません」と云うと、若い声で「カクン?」という反応があり、自らの言葉が時代錯誤的な印象を与えていることを感じた記憶があります。そんな時代を経て、今の我々に大切なことは家訓の有無ではなく、Cさんのように祖先と「会話」し、一族の訓えを「勉強」して自らを省みる姿勢なのでしょう。


      清明(きよあき)という名前の伯父(母の兄)は昭和4年生まれ。従弟に電話で4月14日が誕生日であることを再確認して、名前の由来を得心しました。大正モダンボーイ、慶応ボーイの祖父稲次郎が、節季に因んでオーソドックスに命名したことを微笑ましく感じます。そして杜牧の詩を知っていたかどうかは別にして、祖父も伯父も酒が好きであり、強かったことを思い出しました。


      (了)


    2017.04.18

    周恩来首相 【上海の街角で 井上邦久】vol29 (読む時間:約4分半)


    •  雪残る湖西湖東の分かれ道(拙)


      雛祭り、中国では第12期全国人民代表大会が開幕しようとするころ、湖西線回りの新快速で敦賀へ。今回は気比神社にも、人道の港ムゼウムにも寄り道せず、福井行きの普通電車に乗り換えました。長年の朋友であるSさんは、一昨年来現場に復帰して企業再建に尽力されています。そのSさんから昨年末に電話を貰いました。支援元から派遣された総責任者のT社長は学生時代に中国に行ったことがあるようだ、もしかして二人は仲間同士ではないかい?といわれるSさんの推測は的中しており、今回の訪問に繋がりました。
      大きな窓越しに雪に覆われた白山山系を目の当たりにできる、地元老舗企業の応接室に封筒を持参しながら現れたのは、40年以上会うことの無かったものの、一目でその人と分かる紛れもないTさんでした。Tさんは封筒から二枚のコピーを取り出し話し始めました。一枚は1971年3月13日に撮影された集合写真のコピー、もう一枚は集合写真と参加者を報道する3月14日付けの「人民日報」一面記事のコピーでした。この二枚のコピーを目にしただけで、ちょうど46年前の3月、残雪が凍っていた北京の人民大会堂に一気にカットバックすることになりました。


      学生が国交回復前の中国に行くには個人旅行は難しく、日中友好協会の推薦支持のある団体に参加する形が多かったと思います。当然ながら公安警察からの圧力や恫喝(ブラックリストに載せるから、まともな就職などは考えないことだ、という担当官の捨て台詞もありました)などの通過儀礼を経たのちに、大阪からわざわざ外務省本省で特別なパスポートを入手して、ようやく香港に飛ぶことができました。香港市街から国境の町の羅湖で出国手続きをして英国軍と中国人民解放軍の厳重な警備のなか、一人一人徒歩で橋を渡って深圳へ。その頃の深圳は、駅前から水田が広がり水牛が働くのどかな農村でした。
      広州、長沙、韶山(毛沢東生家見学)、南昌、上海(馬陸人民公社、工業展覧館など)、南京、天津と汽車移動をしました。上海では、和平賓館の窓から眺める街角に車も人も少なく、時々紅衛兵たちの「游行」(隊列示威行進)が通過する際に賑やかになり、やがて静寂が街をつつんでいました。和平賓館ロビーの本棚には「人民画報」「北京週報」と毛沢東選集(当時は4冊本)だけが無造作に置かれていたと記憶します。
      入境して三週間が過ぎ、北京に入ってからの大学などの見学や現代革命京劇(『紅灯記』『沙家濱』)の観劇にも些か退屈してきた3月13日。中国旅行社の人たちから「今日は一番いい服を着てください」との要請指示がありました。連れて行かれたのが天安門広場の西側の人民大会堂でした。そこで周恩来首相が出迎えてくれるとは30名の団員の誰も予想しておらず、さらに記念の集合写真を撮ってから面談と会食になりました。一国の宰相が異国の学生相手に8時間もの時間を割いてくれたことにも驚きました・・・ここまでのオサライについては、Tさんの記憶や印象もほぼ同じでした。しかし、周恩来首相や陪席した郭沫若氏(人民大会常務委員会副委員長・中日友好協会名誉会長)と会えたことだけで舞い上がることなく、Tさんはとても冷静に面談に参加されていたことが今回の再会で良く分かりました。翌日付けの「人民日報」をしっかり入手して保管されていたことにも敬服しました。
      後からの知識として、1971年3月の周首相は文化大革命の渦中にあり、毛沢東主席と№2の林彪副主席の間で軋轢が増していた時期に当たります(林彪の国外脱出、墜落死事件は同年9月13日とされています)。他方ではソ連の軍事的圧迫への対応策として、米国そして日本との関係改善を水面下で行っていた頃とも考えられます(ニクソン大統領、キッシンジャー長官の訪中は、1972年2月。田中角栄首相、大平外相、二階堂官房長官の訪中は1972年9月)。
      ウィキペディアで「周恩来」の項を引くと、「逸話」の一例として以下の書き込みがあります。
      ・・・1971年関西学生友好訪中団との会見において、こう語っている。
      「日本民族は偉大な民族です。元はインドシナからモスクワ、朝鮮まで
      侵略しましたが、日本は2度、この侵略を撃退しました。(後略)」・・・
      このような周首相の発言も聴いたはずですが、今では忘却のかなたであります。
      周恩来首相の死後、何人かの首相がそれなりの努力を続けてきましたが、その誰もが周首相の影を意識してきた印象があります。昨年来、皇帝と宰相のような力関係が濃厚になってきた当今の首相は、折からの人民大会堂での報告に当たって、周恩来首相が味わった苦汁の再来を、どのように受けとめ呑み込んだことでしょうか。


      30名の団員の内、宝石商から帰農したNさんと日中共同トキ保護活動のため西安に駐在していたMさんに続いて、今回Tさんと連絡がつきました。まずは名刺交換からというサラリーマンの所作も忘れて、二枚のコピーから始まったTさんとの会話は、中国団体旅行については事実確認が大半で、懐古談がほとんどなかったことを心地よく感じました。中国の流れはじっくり眺めて対応することも大切だ、しかし「不易と流行」は峻別して、決して流されてはならない、そして如何に後世にバトンタッチしていくかを考えることが大切だと異口同音に語り続けました。熱冷ましに、かまやつひろし『我が良き友よ』なども唄いました。


      (了)


    2017.03.19

    ニ月礼者 【上海の街角で 井上邦久】vol28 (読む時間:約3分半)


    • 二月礼者の意味を辞書や歳時記で調べると、年明け早々に多用であった為、年始挨拶ができず、二月になって関係先の挨拶に回る人、またはその風習、とあります。ただ、今の日本にそんな人や風習が多く残っているとは思えませんし、二月どころか正月でも私的な挨拶回りは徐々に減っているようです。年賀状も元はと云えば、年始回りを端折って葉書一枚で代用する簡便法が始まりだと思います。昨今ではその簡便な年賀状さえも省略してメールで済ませる御仁が増えています。


      中国ではもともと日本ほど年賀状の習慣が盛んではなかったようですが、少し前に学校生徒による豪華なグリーティングカードの交換が社会教育問題になっていました。そして昨今では紅包をチャットで贈るスタイルが新常態化しそうな気配のようです。


      そんな中で二月礼者とは絶滅危惧種のような年始挨拶の形態のようでもあります。ただ日本の正月祝いと中国の春節祝賀を補完する意味では、それはそれで便利な言葉のような気がします。米国の偉い人はもっと上手で、中国の偉い人への春節の挨拶は失念したものの、元宵節には何とかメッセージを届けて帳尻合わせをしたのは周知のこととなりました。


      ところで、この二月礼者という季語を知ったのは、


      紹興酒ぶらさげ二月礼者かな   瞿麦


      という俳句を知ったことがきっかけです。これは上海在住の朱實先生の作品です。台湾彰化の人、笑いながら大正生まれと自称される朱實老師は、瞿麦という俳号で長年に渡り俳句や漢俳(漢字のみで五七五文字)の秀作を残されています。或る方の紹介で朱實(瞿麦)老師との交流が始まったいきさつは、この欄で拙文が掲載されるようになった第一回目に綴っています。その後も俳句や漢俳のご教示を頂いたり、おこがましくも老師の漢俳を俳句に移してみたりの試みを続けています。また、映画監督の山田洋次さんとの仲介をさせて頂いたこともあります。山田作品の『家族はつらいよ』がもうすぐ中国でも公開されるらしいことも嬉しいことです。


      ここで、汗顔の至りではありますが老師の漢俳と拙訳による俳句への置き換えを参考までに例示させてもらいます。


       一雷驚百蟲 万象更新新春意濃 耕種微雨中   瞿麦先生
          啓蟄や万象目覚む微雨のなか       拙


       掌中転胡桃 緩緩自問又自答 秋思幾多愁    瞿麦先生
          掌に胡桃自問自答で夕べまで       拙


      二月礼者の句は朱實先生が日本の大学で教鞭を取っていた頃に句誌に残されたようです。 それから幾星霜が過ぎた昨年の秋、東京神田のA社が主催する「伝統を次代に繋ぐ」秀作俳句展示会に二月礼者の句が選ばれたようだと老師からの電話がありました。おめでとうございます、と天真爛漫に反応したところ、実はそれほど単純ではなくて、出品するとなると、先ずは手数料が必要で、更には西陣織による高級表装の「実費代」として、合計で十万円近くを送金しなければならない由で、どうしたものかなとの相談でした。


      この文化的な縫いぐるみをまとった申し入れは、海を越えた大掛かりな企画工夫だから丁重に対応すべきだ、と日本在住の朱老師の息子さんからのご連絡がありました。それは婉曲に謝絶すべきだとの穏当なご意見でした。上海のベテランの詩人たちの会合では若さ溢れる熱気侠気から「作品を提供する場合は、逆に主催者から作者へ謝礼金を払うのが筋だ」という意見が多かったとのことでした。最終的に老師にはA社の担当者に対し、愛着のある旧作を日本で展示して頂けるのは光栄です、ただ上海で隠遁世活をしている老書生らしく自筆色紙を会場の隅に掲げて頂ければ幸いです、と返事をしてもらいました。加えて上海からの色紙の制作料と国際航空郵送料は作者で負担するという申し出をされましたが、A社からは音沙汰のないままになったようです。


      「二月礼者」という季語、「婉謝」という対応姿勢、卒寿を超えた老師の聡明さを学ばせてもらいました。それにしても日本と中国の文化交流は、俳句と漢俳の交流のように一筋縄にはいかず、落とし穴もあることを再認識しました。諸事情と怠惰のため、日本の年初の挨拶を控えた不肖の弟子は老師の軽味に倣って、春節の頃に年始の挨拶句を捻ってみましたが・・・


           微醺帯び二月礼者と知られたる  (拙)


      (了)


    2017.02.20
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