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コラム「蘇州たより」

青島日本人学校、「台東・四方・滄口」への拡大 【青島たより 工藤和直】Vol.79 (読む時間:約5分)

    • 大正3年(1914年)以降、青島神社(現在の貯水山児童公園)の麓に多くの日本人が住んだ。その東の台東鎮地区へ工業地帯が拡張するに連れて生徒数が増大、従来からある第一小学・第二小学だけでは収容しきれず、新たな学校の造営が新たな課題となった。青島第三国民学校(通称三小もしくは第三小)は、昭和16年(1941年)に若鶴バラック(ドイツの旧モルトケバラック:簡易兵舎)の位置に新設された在青島日本人児童向けの小学校だった。地図で見ると青島神社の東裏手になる。校舎はその後、青島医学院(現:青島大学医学院)に継承され、現在は当時の講堂だけが残っている。


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      登州路にある青島ビール工場に多くの見学者が訪れている。その登州路を西に行くと、右手に多くの商店街とその奥に多くにアパート住宅が見える。当時はここも青島ビール(大日本麦酒)の工場であった。しばらく歩くと道が北に曲がり盲学校があり、その北に青島大学医学院の門がある(登州路38号)。上の写真右は1941年(昭和16年)当時の第三小の全景である。右下が第二公園(現在は体育場)で南北に松山路が走る。当時の門は現在より北側にあったようだ。そこから入ると、左手にテニスコートや校庭が見えた。その校庭の奥に学生食堂と寮があるが、その間に褐色の古い建屋が垣間見える。それが第三国民学校当時の講堂跡である。現在は使用頻度がほとんどなく、講堂以外で使用されている様だ。正面の東西に長い白い校舎は建て替えられ、教学楼として勉学の場となっている(下写真)。


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      昭和16年(1941年)3月1日、教育審議会の「国民学校、師範学校及幼椎園ニ関スル件」の答申に基づいて小学校令を改正して「国民学校令」を公布し、次いで3月14日、小学校令施行規則を改正して国民学校令施行規則を公布、いずれも同年4月1日から実施することとなった。ただし、改正の義務就学期間の適用については、国民学校令附則第四十六条の規定により、昭和19年度から実施することとなっていた。すなわち国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」させることを目指した。なお、「初等普通教育」とは国民学校の内容を示し、「基礎的錬成」とは、教育の方法を示したものである。第三国民学校はちょうど尋常小学校から国民学校に移る昭和16年に新設された小学校であった。


      台東地区の地図を見ると、この場所は若鶴バラック(青島守備軍簡易兵舎)となっている。当時は写真のようなバラック状の兵舎が並び、1914年青島要塞陥落後はドイツ軍兵士捕虜収容所となった。


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      四方(Si Fang)地区は青島ビール工場がある台東工業地区が手狭になったため、青島日本守備隊が大正7年(1918年)から本格的に日本企業向けに、台東鎮北に土地の取得・拡張を開始したことから始まる。まずは台東鎮西側の高台から土砂を青島大港北側の埋め立てに利用して、45万坪の造成地を作った。当時の地図を見ると、内外綿株式会社の右上に、苦力収容所と記載がある。第一次世界大戦時に欧州戦線に多くの中国人を荷夫として送った宿営収容所(逃げ出さないようにする)であった。その後、収容所は日清紡績青島工場となった。中央右に鉄道部四方工場があるが、ここは日本守備隊鉄道部の主力工場であった。大正11年(1922年)には日本人261名、中国人1591名が勤務、鉄道車両の製造・修理ほか鉄工所としても使われ、多くの中国人が機関車の組立技術を学んだ工場でもあった。現在でもこの四方工場は、中車四方車両有限公司として中国鉄道にとって重要な地位を占める会社となっている。


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      内外綿株式会社(内外綿紗廠)は、大正5年(1916年)に日系紡績会社として初めて青島に進出した会社であり、工場敷地は11万坪になる。昭和7年(1932年)には、日本人78名・中国人4050名の記録がある。地図の右下に大日本紡績株式会社(大康紗廠)がある。大正8年(1919年)に設立、工場敷地は9万坪、日本人97名・中国人4000名が働いていた。


      工場敷地の東側が住宅地となり、鉄道部四方工場の横を走る四方大馬路(現在の杭州路)に面して、大正7年(1918年)、四方尋常小学校が青島第一尋常小学校四方分校として設立された。大正12年(1923年)には四方尋常小学校として独立し、1941年には国民学校となった。戦後は、四方工人倶楽部として改装され、現在は写真のように漢庭酒店(閉館)となった(杭州路41号)。ホテルの後ろは駐車場と平安派出所になり、更に後ろは、平安路第二小学校の建屋となっている。当時の校庭は現在の第二小学校校舎にあたる。


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      四方地区とほぼ並行して、更に北の滄口(Cang Kou)鎮に日系紡績工場が多く進出した。ひとつが当時日本企業最大の鐘淵紡績(カネボウ)で、国光紡績(昭和18年倉敷紡績と合併)や富士瓦斯紡績(現在の富士紡)などもあった。その規模は鐘紡で25万坪、国光で14万坪、富士坊で13万坪と群を抜く。鐘淵紡績や豊田紡織、その他の日系紡績会社については、その痕跡を調査した結果を別資料(国綿一廠~九廠の歴史)にまとめることにする。


      滄口地区だけでも四方と同じ程度の日本人が居たと思われ、当然小学校が不足した。大正11年(1922年)5月に、滄口尋常高等小学校が設立された(李滄区四流中路113号)。写真のような校舎が正門前にあった。現在は、北楼にあたる校舎が現存し、玄関の門柱は昔のままと思われる。生徒数など詳細は不明だが、当時の四方・滄口工業地帯に日本人が1000名ほど勤務していた事から、500~600名近い児童が居たと予想され、二つの小学校にそれぞれ250~300名ほど在校していたのではないか。現在は貨物駅になっている滄口駅の東方600mに青島第三人民病院があるが、1931年設立の美国(アメリカ)基督教会医院の跡地に建てられた大病院である。


      参考文献:青島物語(続編その18)


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    2017.11.19

    越王「勾践」が遷都した青島「琅琊台」 【青島たより 工藤和直】Vol.78 (読む時間:約4分)

    • 青島市黄島区から南50km、海沿いにある琅琊台(lang ya tai)は、美しい自然に囲まれ、非常に風光明媚な場所で、「山、海、古、俗、仙、奇、美」が揃った独特の面白さがある。風景区には「琅琊台」、琅琊台の下にある「龍湾」、琅琊台を取り巻く「沿海風景帯」、琅琊台の前には「斎堂島」という見所がある。琅邪台には「望越楼」・「御路階段」・「徐福殿」・「観龍閣」などの歴史遺跡物がある。琅琊台付近は6000余年前から人類が居住し、琅琊文化を創生したという。


      春秋時期紀元前7世紀、斉国「桓公」はここに琅琊県を置き、膠南市北西部を通る600kmに渡る斉国長城を建造した。この長城は秦の万里の長城より500年古い。


      「琅琊台」は2200年以上の昔、古代人が琅琊山に土を60m押し固めて築いたもので、三面を海に囲まれ、台のような形をしているため、琅琊台と呼ばれた。海抜183mであるが、元々は60m低かったことになる。琅琊台前の古琅琊港は秦皇島・芝罘(煙台)・会稽(紹興)・寧波とあわせ中国五大古港の一つである。古琅琊港は中国古代海港として最初のものであると同時に、軍港としても当時最大規模であった。また秦の方士「徐福」が数千の少年少女を率い、不老長寿の薬を求めて日本に渡ったといわれる起港地でもある。つまり中国海洋文明の出発点とも言えよう。


      秦の始皇帝(紀元前259~210年)は中国統一後も琅邪郡を置き重要視した。港の前にある「斎堂島」は、秦の始皇帝が不老不死を祈願して、斎戒を行ったことからこの名が付き、陸地からわずか0.4kmの距離である。島には三つの村落があり、最も豊かなのは「海島村」で、始皇帝の母もまた、この島にあった「娘娘堂」と呼ばれる寺院に住んでいたという。「琅琊台刻石亭」はもともと刻石(石碑)遺跡だったが、内に刻石の複製品が置かれている。琅琊台で最も貴重な文化財は秦朝刻石で、496字が刻まれ秦の始皇帝の天下統一の功績が書かれている。碑文は秦の政治家であった李斯の手によるもので、戦乱を潜り抜けてきた石碑の原物は、現在北京中国歴史博物館に保管されている。


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      越王「勾践」(? ~紀元前465年)は、春秋五覇の一人に数えられた春秋後期の人物である。有能な宰相「范蠡」の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉王「夫差」を現在の蘇州市南西部にある霊岩山(姑蘇山)で自害させ、呉を滅ぼした(紀元前473年)。かつて勾践は会稽山で宰相范蠡の進言に従い呉王「夫差」(?~紀元前473年)に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切って和を受け入れた(紀元前494年)。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作で程なくして越に戻った。 勾践はこの時の悔しさを忘れず、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐め、呉に対する復讐を誓った。これを「会稽の恥」と言う。呉王「夫差」が父「闔閭」の仇を討ちために、寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れなかった事「臥薪」と並べ、「臥薪嘗胆」という故事の元となった。


      呉を滅ぼした越王勾践は黄海を望む琅琊台に観台を造り、紀元前472年、諸侯と徐州(山東滕州の南)で会盟を行った。亡んだ呉王夫差が河南省封丘県南西部「黄池」で会盟を行ったのが、ちょうど10年前の紀元前482年であった。勾践は首都を会稽から琅琊台に移した。ここに覇業的基地を造り、その後8世代の君主が224年間も続いた。越王は河南省開封近く杞県にあった中華原点である夏国の末裔といわれている。先祖の故郷に近い位置に遷都したとも考えられる。しかし、勾践は遠く離れた南の故郷(会稽)を忘れられず、海辺に近い高台(望越楼)から南の方角を見ていたという(写真)。望越楼に登って見ると、そこにはブロンズ製の勾践像が南向きに置かれていた。越の国は遠く霞の中にあり、眼下には琅琊港と斎堂島が見えた。そして、勾践はここ琅琊台で亡くなったという。


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      秦の始皇帝もここに琅邪郡を置き、紀元前219年の泰山封禅の後、琅邪台を設けて秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。秦の始皇帝は六国を討伐平定して中国統一を完成させ、琅琊を36郡の1つとした。その後5回全国巡遊し3回琅琊を訪れ、そのうち1回は3カ月ほど滞在したと「史記」の「秦始皇本紀」に記されている。3回とは、紀元前219年・218年・210年であった。最後の訪問は死の直前紀元前210年であり、5回目の南巡の途中であった。姑蘇「呉」の直後に琅琊を訪れ、山東「芝罘」から「平原」を通過、河北省「平郷県」(現在の邢台市)で死んだという。ついに徐福の不老不死の仙薬は間に合わなかった。


      前漢時代は今の諸城県に琅邪郡を置き、後漢は今の臨沂(Lin Yi)県を中心に琅邪国とした。漢武帝もまた3回ここを巡遊している。また漢の宣帝・明帝などの帝王も琅琊台に登った。唐時代は李白や白居易など多くの詩人も訪問している。


    2017.10.30

    春秋時代、1500年間さまよった杞憂の国「杞国」 【青島たより 工藤和直】Vol.77 (読む時間:約4分)

    • 膠済鉄道濰坊駅から南へ車で40分、山東省濰坊市坊子区黄旗堡道杞城村に「皇城頂遺跡」という石碑が畑の中にぽつんとある。この一体約20万平米にかつて杞国王城があった。杞国王は中国最古の「夏」王朝(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)につながり、国姓は「姒」であり、五帝のひとり「禹」の末裔と称した。商(殷)王朝(紀元前1600年頃~紀元前1046年頃)末に一度滅びるが、新興の「周」王朝により再興を果たした。「夏」王朝遺民が多く集う、弱小国「杞国」でもあった。


      杞国は、現在の河南省杞県(開封市)を起点とし、宋国→淮夷→徐国→曲阜南の滕県付近の邾国(鄒城市南東10kmで一辺2.5kmの城郭都市、紀王城ともいう)へと遷都(実態は夜逃げ同然)を重ね、紀元前751年頃に現在の泰安市に属する新泰市、紀元前646年には濰坊市に属する昌楽県へ、最終的には紀元前544年に安丘市付近濰坊市坊子区黄旗堡道杞城村へと都城を7回移し、距離にして約600km移動したとされる。「杞」国は国力に乏しく、周辺諸国との外交関係のなか、東楼公より20代の王が記録されている。この国は浮き草のように1500年間翻弄され、紀元前445年、楚によって滅ぼされた。漢代に編集された『史記』に「陳杞世家」の記述があるが、杞についての記述は僅か270字であり、「杞小微、其事不足称述(杞は小微にして、其の事称述するに足らず)」と扱われている。


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      「杞憂」(きゆう)という故事がある。無用の心配をすること、取り越し苦労をすることの意味に使われる。中国では昔、大地は正方形で、四隅を天柱という柱が支えていると考えられていた。杞国の人は「天が落ち地も崩れたら身の置き所がなくなると心配し、夜も眠れず食べ物も喉を通らない」状況になったことに由来する。くだらない話と言えばそれまであるが「天地が崩れるなどと、余りにも先の事を心配することより心を乱されない無心の境地が大切である」と言ったのが、この寓話に対する老子の後継者「列子」である。杞国は商(殷)王朝、周王朝と続く統治の下で耐え忍びながら存続していくために、民衆のなかに「杞憂」のような極度に思い悩む心配性の高い人物が現れたのであろう。残念ながらその杞国も、南方の強国「楚」に攻撃を受け、紀元前445年に攻め滅ぼされた。中国最古の「夏」王朝を起源とする国の終焉の地が、ここ山東省にあったのだ(下図)。


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      小国の杞であるが、夏王室の末裔であり夏礼を保存していることから儒家にとっては大きな意義があった。孔子も夏礼を学ぶために杞を訪問した記録がある。殷墟より発掘された甲骨文字の中に杞の文字を記したものが発見されており、殷代には杞が存在していた証拠とされるが、杞県(開封市)での考古学上の発見は未だなされていない。新泰において清代の道光年間及び光緒年間及び2002年に、周家庄「杞の貴族墓葬群」で杞国の青銅器が発見され、新泰に杞が存在していたことが証明された。


      山東省の大半を領した斉国に、後年杞国公子の一人が鮑の地を与えられ、鮑氏と名を変えた。鮑氏は「斉」国内で徐々に重きをなし、その一族のなかから鮑叔(ほうしゅく)という賢臣が現れ、斉国の隆盛を支えることになる。鮑叔は、利害によって変わることのない親密な交際を表す「管鮑の交わり」の故事で有名である。鮑叔が後見人になり王として推す太子を、かつて鮑叔の友人であった管仲は暗殺しようとした。管仲自らが擁立する太子を、王位継承レースで勝ち抜かせるためである。その難を逃れ、鮑叔の活躍により晴れて彼が守り役であった太子が新王「桓公:紀元前685~紀元前643」として即位するや、鮑叔は管仲を許したばかりか、命までをも狙われた新王に対し、助命の嘆願のみならず一国の国政を委ねる宰相へと推薦したのである。管仲(?~紀元前645)はその後、寛大なる名君「桓公」のもと、名宰相としての評価を不動のものにし、「斉国」を東方の強国に押し上げ、「桓公」を数カ国の諸侯を束ねる覇者として君臨させたと「史記」が伝えている。鮑一族は「夏」王朝に連なる名族ながら、臣下となり仕える身に立場は変わっても歴史の波に埋もれることなく、連綿とさらにその名を高めていった。


      「衣食足りて礼節を知る」これは管仲の言葉である。斉の経済政策を進めた名宰相である。彼が言ったことをまとめたのが「管子」である。その中に筆者が一番好きな言葉を最後に述べたい(管子形勢篇)。「洞察力や先見力を磨こうとすれば、歴史に学べ」ということである。「疑今者察之古、不知来者視之往。万事之生也、異趣而同帰、古今一也:今を疑う者はこれを古に察し、来を知らざる者はこれを往に視る。万事の生ずるや趣を異にして帰を同じくするは、古今一つなり」。歴史を学ぶ者にとってバイブルのような言葉である。「現状を理解できない時は、昔の事から推測するが良い。未来を予測できない時は過去を振り返ってみるが良い。万物は現われ方が異なっていても、その法則性は古今を通じて変わりがない」。2700年も前に言った言葉であるが、人類が続く限り色あせることはない。



    2017.10.12

    徐州日本領事館跡を訪ねる 【青島たより 工藤和直】Vol.76 (読む時間:約3分)

    • 徐州(江蘇省)は古代、彭城と呼ばれ、五帝の一人「黄帝」が最初に都を置いたといわれる。春秋時代は宋国の一つの都市として繁栄し、悼公の後に商丘から彭城に遷都したこともあった。明の天啓4年(1624年)黄河が大洪水を起し、4年後に水が引いたがそれまでの古代都市は5m地下に埋没した。清の康煕7年(1668年)には大地震が発生し、56年後に復旧した。現在の城郭は清の嘉慶年間に作られ、古代から継承した四つの門(東西南北)があり、東門は河清門、西門は通汴門、南門は迎恩門、北は武寧門と称し、城壁は2丈3尺(7.5m)、幅は1丈1尺(3.6m)、堀は3丈(9.9m)あった。


      清の嘉慶5年(1797年)に、周囲は14里半(7.3Km)となり、下記の地図を見ると、徐州城中央は半円形(南部が直線)の形状をしている。その周囲に増設された土城が外城の様につながっている。東門は現在の大同街東端「徐州市人民舞台」の東側にあった。東門の外に黄河があったので「河清門」とも呼ばれた。徐州府外城図から見ると、4門の外に半月状の出城がそれぞれあり、現在の老東門はその出城門のひとつで、出城内に現在の老東門商業施設がある。また、東南角には快哉楼、南西角には燕子楼を造営した。太平天国の乱(1851年)には砲台を各所に設けた。1928年、国民党軍が城壁城門を軍事上の理由で破壊したが、現在東南部「快哉亭公園内」に150mの城壁が残っている。


      徐州老東門(淮海東路104号)は、当時の地図で見ると半月状出城の北門にあたる。1939年7月、老東門から入った正面約100mの位置に日本徐州領事館(中野高一領事)が設立された。その左に憲兵隊本部(老東門4号楼)があった。1945年終戦後、国民党軍作戦指揮部となり、解放後は軍管大院軍隊某部隊機関が駐留した。軍事施設のため2011年までは内部に入ることはできなかったが、現在は商業街(門の左がケンタッキー)となり、当時のままの日本式洋風楼、礼拝堂、ヒマラヤ杉や楠木の大木が残っている。また大同街に隣接する辺りに、清代の煉瓦造り城壁跡を確認できる。老東門内には、終戦後の国民党・共産党軍の軍事建屋遺跡などを見ることができる(下記写真)。領事館前に立つ大きなヒマラヤ杉を見上げるだけで、当時の風景を想像しうるに足りる。


      大同街は当時、東門から入る繁華街であり、西に向かうと「鐘鼓楼」が立っている。4面5層で高さ18.8mで、1930年創建当時は徐州一の高層建築であった。1938年5月の徐州会戦時に日本軍により破壊され、すぐに再建された。防空警報器が取り付けられ、ここから空襲警報などが緊急発令された。戦前、徐州市管轄内の日本人(朝鮮・韓国人含む)は28,000名、城内だけでも10,000名になろうとしていた。日系企業は、現在の文化路に132社ほどが進出し、横浜正金銀行・華興銀行・三菱洋行などの名前が見られる。大同街に花園飯店がある(老東門近く)。ここは徐州一の老舗旅館であったが、1938年徐州陥落後に日本軍が占拠、1948年12月1日に徐州解放後に毛沢東や朱徳が宿泊している。大同街を更に西へ行くと、中山南路になるが、その右手に中央百貨大楼があるが、この西北部に「東亜新秩序記念碑」があった。


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      1940年2月10日、皇紀2600年紀元節に合わせて徐州神社(旧豊財県)が創建された。旧民衆草堂跡地に建立され、現在は第三人民医院の北になり、環城路から閘口東路を北に向かいカーブになった箇所であったが、神社があった痕跡は一切見られない。徐州神社と同時に「忠魂塔」も同時に建立された。ちょうど1938年8月、日本陸軍華北方面軍がこの地を通り入城した。高碑には「興亜建設之先駆」と刻まれていたが、終戦の折に神社共々切除された。


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    2017.09.07

    孔子の故郷「曲阜魯国故城」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.75 (読む時間:約3分)

    • 魯国故城は周代の国都遺跡、曲阜市の市街に広がり、北京から高速鉄道で3時間半程度である。周の武王が紀元前1045年、殷(商)を滅ぼして周王朝を開いた。その弟で建国の功臣だった周公旦がこの地に分封され、魯公を称した。ただし魯国は息子の伯禽に任せ、周公本人は魯にとどまらず朝廷に居て武王亡き後の不安定な政治を補佐したという。魯は戦国時代(紀元前249年)、楚に滅ぼされるまで34代・873年余り続き、周の諸侯の国都の中でもっとも長く都として存続した。阜とは丘のことであり、曲阜と名付けられたのは隋年間西暦596年のことである。


      魯国故城は東西3.5km・南北2.5kmの長方形で周長は11.5km、城壁の外に30m幅の外堀があった。今も東南・東北・西の3つの部分に当時の城壁が残っている。版築という工法によって土を押し固めていく方式で、遠くは鄭州城もそうであったし、秦代の万里の長城もこの方式である。当時の資料では高さは8~10m程と記録されているが、今残るのは5m高程度である。西周初年から着工、中央に宮殿を置き、周囲を壁で囲み、宮殿の前面に朝廷、後方に市街、左に祖廟、右に社禝という周代の儀礼「周礼」に従ってつくられた。城門が東・西・南・北に各3か所の12門(北門から時計回りに、莱門・上東門・東門・石門・鹿門・南門・稜門・吏門・西門・子駒之門)があった。南門は幅15mで外から門を挟むように小高い丘となっていたようだ。大通りが東西に7本、南北に6本(幅は10~15m)あったことが分かっている。周公廟がその中央に位置する。現在の秉礼南路~迎賓大街は都の中心線であり、南門と北門を結ぶ。北門付近から東に約1kmに渡り当時の城壁(版築工法)を確認することができ、北の外堀跡は洙水河となっている。


      中央部の北寄り宮殿付近に陶器や骨器の制作工房と鋳鉄工房遺跡があり、住居址は盛果寺から東に点在、西部の墓地(文津橋付近)からは貴重な文物が大量に出土された。春秋時代末期、孔子(紀元前551~紀元前479)が晩年に『詩経』『書経』『春秋』を編み、古典を整理したため、曲阜は儒家学派の発祥地となった。魯はのちに「孔孟の郷、礼儀の邦」といわれた。


      魯城は前漢の後期まで使用され、その後西南部に漢城が建てられ小さくなったが、魯城の南壁・西壁の一部はそのまま使われたようだ。地図から見るに、現在の城郭(明代)は前漢時代の宮殿の跡地で、春秋の魯国城の1/4程度である。明代嘉靖元年(西暦1522年)に高さ6.6m(二丈)・厚さ3.3m(一丈)堀の深さと幅3.3m(一丈)、周囲4kmの5城門(北から延恩門・秉礼門・崇信門・仰聖門・宋魯門)が構築された。その中央部に孔廟や孔府があり、あたかも孔子宅が城内の中央にあるかの様に錯覚する。現在の城門城郭はこの明代の城を改修したものだ。


      戦前、日本人による魯国故城調査発掘があり、1958年には山東省文物管理処による調査があった。1997年には国の文化財部門が魯国故城の調査を行い、魯城の地下遺跡の状況が明らかになった。魯国故城は、地上に5000m以上の城壁が残り、地下には豊富な文化財があり、先秦時期(秦より前の時代)の遺跡の一つで、1961年には国務院から全国重点文化財保護単位に指定された。


      周公廟は「元聖廟」ともいい、曲阜市の秉礼南路×静軒中路交差点から北方1km、魯国故城中央部に位置する。祀られている周公は周の文王の第四子で、武王の同母弟になる。武王が殷朝を滅ぼした時に魯に封じられたが、周公は都に留まって武王を補佐し、長子の伯禽が魯に赴いた。武王の死後も、成王が幼かったので摂政として礼楽を定め、天下が大いに安定した。死後、文と諡され魯に太廟を建て祭られたが、魯が亡びると太廟も廃された。北宋の大中祥符元年(西暦1008年)に文憲王に追封され、周公廟が再興された。殿内の神龕にかつては周公と伯禽の塑像と金人(仏像)があった。また西北の壁に画像石があるが、周公の像があるのは全国でもここだけである。


      参考文献:中国の時代散歩1(山川出版社)


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    2017.08.08

    写真で見る「青島に残る日本の残影」 【青島たより 工藤和直】Vol.74 (読む時間:約2分半)

    • 青島は、当時漁村に過ぎなかった青島村に1897年(明治30年)11月14日、突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領したことから始まる。青島の歴史は今年で120年になる。青島市の中心にある中山路から北に行くと、日本企業が設立拡張した館陶路金融街(横浜正金銀行や朝鮮銀行、三菱商事や三井物産)がある。現在も金融の中心地であるが、当時から金融センターの役目を持っていた事が理解できる。ただ、今はドイツ風情街と命名され観光化されている事に多少違和感がある。中山路には日本映画を興行していた国際劇場が現存する。


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      ドイツ総監府周辺(太平路の日本総領事館跡)から江蘇路、熱河路から北に貯水山の青島神社跡周辺は、日本人が多く住んだ街であった。青島神社跡は児童公園として整備され、本殿跡は青島電視台となっているが、石段などはそのままである。西本願寺跡は、今では無棣四路小学校となっている。内地への手紙は青島郵便局大和町支店から送ったのであろう。桟橋バス停の対面は青島日報社となっているが、かつては中央飯店(1904年竣工)であった。青島路を越えた所に日本総領事館(徳華銀行)があり、同じ敷地内に膠済鉄道の敷設工事や炭鉱開発を進めた山東鉄路鉱路公司建屋が現存する。


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      日本軍関係施設は、それまであったドイツ建屋を借り受けた(略奪した)形でスタートした。しかし、どの施設にも日本軍が関与した説明書きは見当たらない。今では、憲兵分隊は青島市公安局、憲兵隊総部は宗鑫博物館になっている。その他陸軍倶楽部跡地は青島工人劇場、青島病院の対面の陸軍病院建屋も公安局となっている。


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      日本人学校は、ドイツが建設した学校を横滑りに学校として使ったことからスタートした。その後、青島中学を含め1917年頃から新校舎ができて来た。どの学校も、創立100周年になる。青島で生まれた日本人は、廣瀬小児科に行くことが多かった(第一小学校の北)。ドイツ総監府徳県路に個人医院(若槻病院)があるが、表札には私人宅としか表示されてない。青島病院は1904年完成した総督府野戦病院からスタートしている。2017年6月にはまだ改装中であった。普済病院は膠州路に面して今も現存するが、1919年に華人用として建てられた病院であった。


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      1912年(大正元年)には、ドイツはルンプラー型軍用飛行機を1機配備していた。この飛行機がドイツ総監府付近を撮影したのが下記の俯瞰写真である。当時の航空写真技術には驚きを隠しえない。現在その写真に見える建物を地上から撮影し併記して見た。多くは外装が補修されてはいるが、骨格は100年前と同じであることに気付く。手前左に隠れてプリンス・ハインリッヒホテル(1)があり、右手に日本総領事館(当時は徳華銀行)(3)が見える。青島路を左右に分断する広西路にドイツ郵便局や官公庁が立ち並ぶ。総監府から右手斜めに領事館街と呼ばれた沂水路があり、青島病院(総督府野戦病院)(11)に繋がる。


      参考文献:青島と山東半島(旅行人ブックス)


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    2017.07.06

    斉の国都「臨淄」を巡る 【青島たより 工藤和直】Vol.73 (読む時間:約6分)

    • 山東省「臨淄」は春秋周時代に斉都が置かれた地、現在は淄博(Zi Bo)市臨淄区になる。周の初めに太公望呂尚が封ぜられ、「営邱」といわれた。その後、紀元前859年に斉の献公がここに都を定め臨淄(Lin Zi)と名づけた。春秋時代には桓公が覇者となり、戦国時代には田氏一族が七雄の一国として、ここを中心に活躍、華北第一の都市として特に文芸の中心として栄えた。『史記』によると、春秋中期にはすでに4万2千戸の都会となり、戦国時代には7万戸(推定35万人)、男子21万人で街は肩と肩が触れ合うほどの賑わいと記録されている。


      春秋戦国時代、農業や手工業の発展によって、経済の規模が点から面に広がり、あわせて貨幣経済の促進で国境を越えた広範囲な市場の発展を促した。当時、周の洛陽、斉の臨淄、趙の邯譚、魏の大梁(開封)、楚の郢(荊州)などは1万戸を越える大都市であった。その後紀元前284年には燕など5国に攻められて衰え、紀元前221年には秦によって滅ぼされた。秦は紀元前230年に東隣の韓をまず滅ぼし、翌々年に趙、紀元前225年には先進国の魏を滅ぼした。魏国は当時一番の文明国であったが、国政が衰えたところを攻められ滅んだ。その後、南方の楚を前223年に滅ぼし広大な地域を手に入れた。残るは北方の燕国と東方の斉国であった。紀元前222年に燕を滅ぼし、その帰路に斉を急襲して一気に滅ぼした。斉の弱点は、今まで隣国でなかった秦に油断したことだった。ここで秦の統一が完成するのである。


      臨淄斉国故城は淄博市臨淄区の西部から北部にまたがり、東は淄河、西は系水に臨み、南に牛山と稷山がたたずみ、押し並べて平原である。『史記』によると、紀元前9世紀半ば、斉の献公が薄姑(現・博興県)から当地に遷都、春秋戦国時代から紀元前221年に秦に亡ぼされるまで630年余りにわたり姜斉と田斉の国都として東方の重要な政治・経済・文化の中心地となり、当時、最も繁栄した都市のひとつであった。斉の故城は大小両城からなり、大城は旧淄博県城北方に広がる4km長の不整長方形で城門が6ヶ所あり、城門跡・製銅・製鉄・鋳銭・骨器製造遺址が多数発見されている。また、墓地が2つと大規模な殉馬坑(写真)が発見されている。小城(東西1.4kmX南北1.2km)は大城の西南部に位置し長方形の宮殿区となっており、城門は5ヶ所あった。その西北部に桓公台という高さ20mほどの高台があり、斉の桓公が諸侯と会見したり兵馬を検閲したりしたところと伝える(写真)。小城の東には隣接する隋代の城壁があったが、周囲2キロメートルにすぎない。この斉国故城をより細かく説明すると、約4km四方の外郭をもつ外城に、南北2.2km×東西1.7kmの内城が南西角に食い込んだ形状で、大城は淄河に沿う東壁が5,209m、南壁と西壁が2,821m、北壁が3,316m、西壁幅32~43m、周囲14.16km。小城は東壁2,195m、西壁が2,274m、南・北壁は1,404m、周囲7.28Kmである。大城は役人・平民・商人が住む郭城、小城は君主の住む宮城で、二城はあわせて面積15.5平方キロ程度である。ほぼ蘇州城と同じである。城門は13座(二城をつなぐ2座を含む)あり、城内には大道が縦横に走り、多くが城門に通じる。現在究明した主要交通幹線は十条、小城に三条、大城内に七条あったと推定される。また、故城遺跡・殉馬坑・斉墓・桓公台など十数ヶ所の文化財名所がある。


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      斉国故城垣遺跡は、小城と大城が重なる付近に現存している。それは石垣を積み上げたものでなく、土を押し固めて積み上げる版築方式である。これは浙江省杭州北にある良諸遺跡や商(殷)、周時代の故城で見られる構造と同じである。この城垣遺跡から斉恒路(村道45号)を北に歩くと、すぐに晏嬰墓が右手にある。更に約2.0km歩くと排水道口に至る。写真は外城側と内城側から見たもので、その距離20mから城壁の幅が推定できる。


      田氏は紀元前386年、康公を幽閉して国を奪ったが、周王より諸侯として承認された。威王とその子宣王(紀元前319~301)の時に強大となった。都の臨淄は戦国時代中国最大の都市として繁栄、小城の西門にあたる稷門(Ji men)付近に多数の学者が集まり(写真)、時には数千の学士が学問上の論争を行ったという(稷下の学)。その中には「孟子」も居たが、史記の記録によると「用うるにあたわず」と冷たい表現が残っている。「東京大学稷門賞」は大学の発展に大きく貢献した個人・法人又は団体に対し授与するもので、平成14年度より毎年行われているが、その命名はここにある。


      故城は1926年に日本人が調査したという。中華人民共和国が創立した後に、山東省文物管理所が何度か調査し、1958年山東省文物幹部訓練班が遺跡を発掘・掘削、1964~1966年山東省文物管理所と北京大学が遺跡を全面的に掘削し、1971~1976年山東省文物管理所が再発掘した経緯がある。1961年に中華人民共和国国務院により全国重点文物保護単位に公布された。現在、全ての城壁は地上に存在せず、城内外とも麦畑が広がる長閑な田畑であるが、ここが当時世界1、2を争う大都会だったとは想像もできない。


      淄河と係水は東西の自然の河である。大城内に幅2.3m・深さ3mの幹線下水道があり、4つの排水路となっている。その排水路は城内から淄河と係水に連結させ、城は水に囲まれ実にうまく完備した排水網となっている(写真)。あたかも蘇州城内の3横4直の運河に似ている。


      城内に幹線道路が発見され、小城内に3条、大城内は7条があった。小城内の幹線道路をあげると、東門大道は約1,200m×幅8m。西門大道は長さ約650m×幅17m。北門大道は1,430m×幅6~8m。大城内の幹線道路は東西幹線道路、全長3,300m×幅20m。中部の南北幹線道路は全長4,400m×幅20m。北部の幹線道路は東門から西壁まで、長さ約3,600m×幅15mぐらい。北壁の西門大道は南・北部に650mが現存し、幅6メートルあまり。中部幹線道路は長さ2,500m×幅17m程度であった。大城の二つの南北の大通りと東西交差を形成する「井」の字付近は都の中で最もにぎやかな市井であったというが、今歩くとまさに農道でしかなく、ここが大道であったかと想像もつかない。


      臨淄は当時中国五大工商業都市の一つであったため、遺跡から東周から秦漢時期の手工業の遺物、東周・秦漢時代の銅銭の鋳型が多く発見され、当時の貨幣鋳造業が発展した証拠を見ることができる。写真は有名な春秋時代「斉」の刀銭(小城で鋳造)であるが、その後、西の秦が強大になるにつれて、秦で使われた環銭と同じ円孔円銭や方孔円銭が使われた(写真)。形状こそ違うが、字体に共通性がある。筆者は蘇州で斉の古銭(円銭)を収集したが、これがこの臨淄で造られ、はるか1,000kmの距離をどうやって来たのかと思うと感激に値する。前漢の後にあった新「王莽」時期に復古ゆかしい布銭銅銭が使われ、その鋳型が発見されている(写真)。この臨淄の街は、五胡十六国時代(西暦304~439)頃に衰えていったという。


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      この臨淄に行くには、山東省都済南市から高速鉄道で1時間、駅前右の張店天主堂前の三院バス停があるが、ここから辛店行き20番に乗る。臨淄駅前が辛店(この地域の昔の名)になる。ここから52番バスで臨淄城内へと向かう。高速道路を過ぎてすぐに南門入口(石碑のみ)に着く。斉都鎮を過ぎるとすぐに斉国故城遺跡博物館(現在は閉館し、太公湖の斉国文化博物館に移設)が見えて来る。


      参考文献:中国の歴史散歩1(山川出版社)


    2017.06.21

    山東省淄博市「淄川神社」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.72 (読む時間:約2分半)

    • 山東省淄博市は、解放前に「張店」と呼ばれていた。張店停車場(1903年建設:現在は淄博站)は淄川炭鉱・博山への鉄道支線分岐点として、膠済線では最重要の停車場であって最大の操車場を有していた。そのような土地柄から、張店には張店病院、妙心寺、屠獣場があり、中華人向け小学校を併設しているドイツ系の張店天主教堂(駅の右手に現存)もあった。張店駅の近辺は、道路も建物も全て日本式で、済南・坊子に次いで日本人が多い町であった。中華人の人口は200人前後で戸数は50戸ばかりだが、日本人の人口は664人、戸数は144戸であった。


      日本人は各種の営業を営んでおり、湯屋、洗濯屋、質屋、古物商、洋服屋、呉服屋、時計屋、運送屋、医師、女髪結、遊技業と広範に及んでいる。貿易商14店、雑貨商6店もあった。博愛街には張店神社(1919年11月22日創建)があった。斉都「臨淄」の南にある臨淄駅は当時辛店站といわれ貨物駅(1904年建設)であったが、その前は張夏站と呼ばれていた。張店駅は、北に行けば鉄山、南に行けば黄山炭坑(淄川炭坑)・博山炭坑への中継駅として山東省における採鉱集積上最も重要かつ最大の駅であった。


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      張店には、更に飲食店が3軒、料理店が8軒、宿屋が3軒あり、これに応じて芸妓3人、酌婦14人、仲居1名がいたようだ。鉄道中継駅として、金嶺鎮鉄鉱、博山炭鉱、淄川炭鉱など、この付近に広く在住する日本人を相手とする商売が繁盛していたのであろうか。張店尋常小学校が新設されているが、児童数、学級数等についての詳細な記述はない。淄博駅周辺の学校で戦前からあるのは、天主教堂の対面(淄博市第三医院)右の第五中学くらいだと聞いたが、ここが張店尋常小学校跡かどうかは断定できなかった。また、この第三医院も張店病院跡ではないだろうか。


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      淄博駅から南に20kmほど行くと淄川(Zi Chuan)区がある。駅から公共バスで5分、公交東站バスターミナルがあり、ここから多方面にバスが運行されている。103番のバスに乗ること40分、洪山路バス停で降りて南に歩いて10分ほど行くと西山公園が見えてくる。ここを過ぎて淄鉱影刷院の南西150mの所に、淄川神社本殿が現存している(淄川区洪山鎮淄砿路133)。1940年(昭和15年)創建の東向き鉄筋コンクリート製である。これが幸いしたのか、中国大陸で現存している本殿は南京市五台山の南京神社と合わせて2ヶ所でないかと想定される。台湾除く中国大陸に約350ヶ所近い日本の神社が建てられたが、本殿が現存している事に驚きを感じ得ない。本殿の屋根や欄干、破風、手挟のコンクリートが剥がれ、内部天井も落下の危険性もあるので「立入禁止」となっている。早急なる補強工事の必要性を感じた。また、本殿正面から東70mほどに鳥居の足を置く花崗岩でできた亀腹がひとつ(鳥居の右足部の基礎石)残っていた。本殿前の鳥居は1960年頃に切除されたとのことであった。


      西山公園の緩やかな坂を登って行くと、同じく鉄筋コンクリート製の納骨堂がある。更に山の頂には炮楼と呼ばれる花崗岩でできた日本陸軍が造ったドームがあった。山の頂上であり、軍事的な意味合いのある監視塔であったのだろうか。淄川は炭鉱の町である。戦前もまた同じく炭鉱で栄え、多くの日本人が住んでいた。


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      参考文献:青島物語19話
      神奈川大学「海外神社に関するデータベース」


    2017.06.06

    済南日本領事館跡と済南神社跡を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.71 (読む時間:約6分半)

    • 済南は山東省都で膠済鉄道(青島⇔済南)と津浦鉄道(天津⇔上海)が交わる交通の要衝である。済南市の歴史は長く、黄河文明龍山文化の発祥の地と言われ、域内で多数の新石器時代の遺跡が発掘されている(城子崖遺跡など)。舜王の治世時代(紀元前22世紀ごろ)から既に豊かな土地柄であった。こうした古代の記憶は、舜王にちなんだ地名にしっかりと刻み込まれている(舜井、舜耕路、舜華路、舜耕山など)。商(殷)王朝の時代、現在の済南市章丘市平陵城を本拠地として、譚国が建国された。ちょうど、現在の龍山街道事務局が設置されている場所がその王都跡(城子崖龍山文化遺跡)である。


      西周が建国されると、各地へ国王が封じられ、分封制による間接統治体制が採用された。済南市エリアは斉国の版図下に組み込まれるも、東夷部族の一派であった譚国は、その半属国として引き続き存続した。春秋戦国時代を通じて、封建社会へと大規模な社会構造の変革が進められる。済南市一帯は引き続き、斉国の領土下にあって、濼邑(今の済南市中心部)と呼ばれ、その後に濼邑城は歴下邑城と改称される。


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      春秋戦国時代に幾度も繰り広げられた斉国と晋国との戦争は、主に現在の済南市の南部にある馬鞍山の一帯で行われた。以後、斉国は国防を重視し、 斉の長城を築城することとなる。秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入された。前漢代の初期から歴下邑の一帯は済南と通称されるようになる。かつての古代四大河川(長江、黄河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現存せず、今の黄河の湖底に眠る)の南側に位置したことから、済南と命名された。黄河は東周の都「洛邑」から大梁(開封)を過ぎた辺りより南から済水、漯水、河水の3本に分かれ東北方向の渤海に流れ込む。前漢の時代の大洪水によって済水は現在の黄河の流れになってしまった。細かく言うと、済南市から天津市の間には9本の河があるが、黄河は常に氾濫し、その川筋はその度に変わったというのが正しい表現となろう。春秋時代、黄河は一番北西寄りの天津辺りを河口とし、かつての済水は河南省済源市西北2kmを源流とした。前漢時代、済南郡が新設され済南郡の郡役所は東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)となった。東平陵県城は、古代商王朝の時代に端を発する譚国の王都から続く都市で、すでに一帯の中心拠点として確固たる地域を築いていた。


      清朝も末期に至ると、帝国列強による植民地化が進み、ついに1904年、済南府も開港させられ、 済南は急速に経済発展が進んだ。1911年末には津浦鉄道の黄河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠点となる。翌1912年に中華民国が成立し、全国的に府制から道制へ改編が進むと、済南府は当初、岱北道に帰属されるも、1914年には済南道と改称された。1928年5月3日、日本軍と国民党軍との間で済南事件が勃発する。日本軍は、蒋介石率いる国民革命軍が張作霖への北伐再開を牽制する為、居留民保護を名目にして出兵(第二次山東出兵)した。1928年(昭和3年)5月3日に済南で市街戦が起こり、8日には日中全面衝突へと発展した。日本軍は多数の中国人を殺傷し、中国国民の対日感情を極度に悪化させることとなった(済南事件)。更にこれに乗じて増派した兵力を山東省から華北全域に展開(第三次山東出兵)させたが、内外の批判を受け翌年には撤兵することとなった。攻城戦の際、日本軍は南門城壁に向けて激しい砲撃を加えた(下写真)。今日でも、この日を記念して、市内では空襲警報のサイレンが鳴らされている。


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      済南市槐蔭区経三路238号に日本領事館跡がある。済南事件を目の当たりに見た歴史の証人である。済南駅前の経一路を西方向に行き、緯六路から南方向に行き、経三路で右折したすぐ左である。第一次世界大戦終了後に青島の租借権をそのまま引継いた直後の1918年に建設された(左写真)。その後1928年5月の済南事件で焼かれ、1939年に再建された(右写真)。経三路から入った正面には、事務棟として使われた2号楼や山東鉄路の建屋がある。入って左にある二階建ての建屋が領事館の建屋である。正面は大きなプラタナスで覆われている。南面に庭がある。その向こうはタイル張りの噴水があった。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。更に南方向へ行くと現在は営業をしていない済南飯店がある。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。 


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      またこの付近は済南駅前に広がった旧市街地に辺り、古い建物がいくつも見える。教会や郵便局、日本軍駐在司令部(経二路162号)などもあった。経二路276号は緯五路と交差する東南角で現在公安局交通警察支隊となっているが、ここは日本の高島屋百貨店(済南出張店)の跡である。高島屋の海外進出は、1899年(明治32年)フランスリヨンに始まり、中国では1905年(明治38年)に天津事務所、1938年の南京出張店に次いで1941年に済南出張店が開業した。高島屋のHPなど見ると、現在上海地下鉄10号線伊梨路にある店舗を中国一号店と宣伝しているが、戦前中国に進出したことは書かれていない。確かに官需受注による軍の命令下であったかも知れないが、この建物の写真「高島屋」は消せない歴史である。


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      済南神社は市の郊外にある梁家庄(現・英雄山)に創建された。詳細な資料写真は発見できていないが、英雄山路18号済南戦役記念館西門が当時の参道入口で、ここから東にやや登りかけた所にある記念館が本殿跡地になる。1939年(昭和14年)に建設開始され、残された石灯寵等に刻まれた年号から1942年 (昭和17年)7月頃にはかなり完成したが、一時建設が中断され1944年(昭和19年)に再開したが、翌昭和20年終戦で未完のままに終わった。境内地は済南革命烈士陵園となっている。神社の本殿があったと思われる場所には、国共内戦における共産党の勝利を記念した済南戦役記念館が建っている。神社の鳥居、灯龍、石碑などに使用された石材が公園のー画にまとめて置かれていた。鳥居の石柱と思われる二本が無造作に置かれ、その大きさ(約9m)からそれ相等に大きな鳥居であったと予想がつく。石灯籠の残骸から寄贈した人物の氏名が確認できる(残念ながら一部消されかけているが)。一つは、茨城県筑波町「廣瀬森次」であり、もう一つは岡山県「安原順吾」・長野県「山崎武源太」と読めそうである。いずれも昭和17年(1942年)の刻印があった。まるで「兵どもの夢の跡」の墓標である。


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      済南東駅の前に広がる大明湖は、済南城内北半分を占める。現在堀に囲まれた跡に内城があった。済南城城壁は北宋徽宗年間(西暦1101年~1125年)にかけて土城として築城され、明代初期1391年に土城からレンガ積みの周囲12里48丈(約6.1km)、高さ3丈2尺(9.6m)、幅5丈(15m)のほぼ四角状の城壁がある。南門(舜田門もしくは歴山門)は中央にあるが、西門(濼源門)は南寄り、北門(会波門)は東寄り、東門(斉川門)は北寄りとちょっとおかしな位置で、東北と南西に偏った城門構えであった。北門は大明湖の水を排出するために水門(水陸門)になっている。この門だけでは非常に不便でもあったのか、それぞれの門の右手に、便利門があった。四方八卦の思想から、南には巽利門、西には坤順門、北には乾健門、東には艮吉門である。清代中期になると、防御の意味で内城を取巻く外城が作られた。南は経十路、西は緯十二路、北は膠済鉄道、東は歴山路に囲まれた約16km2にわたる地域である。その外城には7つの城門が作られた。東に永靖門、東南に永固門、南に岱安門(圩子門)、東南に永綏門、西北に済安門、東北に海宴門である。その後民国時代に門が4つ増設され、最終的には19の城門があったという。しかし、中華人民共和国成立の翌年1950年に他の都市と同じく城門城壁は切除された。


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      参考文献:中国・華北の神社跡地(稲宮康人)


    2017.05.29

    鄭州「商(殷)代遺跡」と「日本領事館跡」を訪ねて 【青島たより 工藤和直】Vol.70 (読む時間:約3分)

    • 中国では、西安(かつての長安)・北京・南京・洛陽の四つの歴史的な首都を「四大古都」と呼ぶ慣わしがあった。ところが、歴史学者らの主張によって1920年代に開封(北宋の都)、1930年代には杭州(かつての南宋の都、臨安)がこれに加えられて、「六大古都」の呼称が生まれた。1988年、地理学者の譚其驤は商(殷)の都の跡である殷墟を評価してその所在地である安陽を追加するように提案した。また2004年、中国古都学会は、商(殷)の時代以降3600年の歴史を持つことから、河南省鄭州を追加した。その結果、今日では以上の8都市(西安・北京・南京・洛陽・開封・杭州・安陽・鄭州)を「八大古都」と呼称している。


      鄭州市にある二里岡遺跡は1951年に発見された。商(殷)王朝の初期の中心地と考えられており、商(殷)後期の甲骨文占卜に記された建国者天乙(湯王)の亳という都市になる。二里岡文化は商王朝の初期段階ととらえている。一方、欧米の考古学者らは、安陽市で発見された商(殷)後期の殷墟とは異なり、二里岡からほとんど文字資料が出土していないため、二里岡を商王朝初期と結びつけることに慎重である。二里岡遺跡のほとんどは現代の鄭州市街の下にあるため発掘が困難である。湯王は当初都を亳(現在の商丘)としたが、あとに鄭州に遷都した。紀元前1600頃なので、3600年も前である。この時に都名を前の亳とし、前の亳を「南亳」と改名した。


      商代遺跡は周囲約7kmの城壁に囲まれた都城で、三重構造であった。現存の内城は北東部がややつぶれた長方形であり、下図のように北壁1690m、西壁1700m、南壁1870m、東壁1740mである。東と南壁がかなり完全に保存されており、東壁部を見ると高さは5m、幅は10~17mとばらつきがある。城壁上部は散歩も可能である。南東部には高さ10m以上の土壁がある。外城は円形で内城から0.5~1.5km離れている。この城郭スタイルは奉天(瀋陽)城でも見られ、「天円地方」の世界観に結びつく。内城の東北部に宮城がある三重構造だ。東大街が東部城壁を交わる公園に、商代亳都都城遺跡の石碑があった。城壁の外に骨器や陶器を作る大きな工房群が位置していた。工房の中には、二つの青銅器工房も含まれ、大型青銅器が発掘された。商代遺跡は商当初紀元前1600年~1400年頃の湯王の都城とされ、二里岡文化と重なる。鄭州市中央には3600年前の世界最大の古代都市が埋まっているのだ。


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      3600年前の城壁を見た後に鄭州駅に向い、途中80年前に建設された「鄭州日本領事館跡」を訪問した。鄭州駅から東南700m程である。駅前の福寿街から敦睦路を南に下り、東西馬路の交差点を左折する。交差点の周囲は商業ビルが乱立している。東馬路もほとんど市場の中にある。ここは、戦前に中国内で最後に建設された日本領事館であった。1929年からの中国政府との交渉の結果、1931年2月に漢口(武漢)総領事館の管轄のもと、駅前の福寿街109号に初代領事「田中庄太郎」が開設したが、9月18日の満州事変により領事館を一時停止、その後1935年秋に再度漢口から派遣された領事館員によって設立準備、1936年1月に現在の東馬路80号に正式開館したものである。しかし、1937年7月に起こった盧溝橋事件のため8月9日には一端閉館となり、領事館員他が鄭州を去った。一年半余りしか使われなかった日本領事館であった。日本人租界地でないこの中原の地に領事館を開館した背景は資料が乏しいので詳細不明であるが、明らかに中国大陸内部への進行を意図したものであろう。領事館前はいつも買い物客で混雑している。玄関右横に石碑(領事館跡)があり、裏にはもうひとつ領事館付属の建屋があった。3600年を1mとしたら、80年間はわずか2cmになる。


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      戦前、中国大陸に日本領事館が関東州含む旧満州に18ヵ所、その他に張家口・天津・青島・煙台・済南・上海・蘇州・杭州・南京・蕪湖・九江・宣昌・漢口(武漢)・沙市(荊州)・重慶・福州・厦門・汕頭・広州・徐州、そして鄭州と21ヵ所あった。


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      参考文献:旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41


    2017.04.26
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