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コラム「蘇州たより」

一生に二度しか笑わなかった西施 【蘇州たより 工藤和直】Vol.45 (読む時間:約3分半)

    • 霊岩山は蘇州城から西南15kmにある標高182mの小高い岩山である。古くは春秋時代、呉王・闔閭(在位紀元前514年~496年)が霊岩山(姑蘇山)に「姑蘇台」を、その子夫差(在位紀元前495~476年)は美女・西施のため、この姑蘇台に「館娃宮」を設けた。現在霊岩山と称する頂にある「姑蘇台山頂花園」は、館娃宮「御花園」の遺跡だとされており、中国に現存する最古の庭園でもある。山麓から正面山頂に見える霊岩塔(多宝仏塔)を目指して徒歩で40分程度である。


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      観音洞は道に沿って山に登る途中にある。左に続く竹林を見ながら、かなり上り詰めた所に「落紅亭」と碑刻され建物が見える。山頂の霊岩山寺はまっすぐ登るが、左手に常にローソクが灯り線香が絶えないお堂がある。ここは紀元前494年会稽山で破れた越王「勾践」が監禁させられた洞窟である。勾践は囚われの身で、会稽からここ姑蘇霊岩山に連れて来られた。髪は伸び放題、裸足で馬の世話や掃除などの労働に従事し、夜はこの洞窟で寝るという有様である。


      呉王「夫差」といっしょに来た西施は、みすぼらしい越王「勾践」の有体を見て悲しみ、それを押し殺すかのように笑い顔をつくろったといわれる。いやみすぼらしい越王の姿を見て本当に笑ったのだという説もあるが、筆者はこう思う。「臥薪嘗胆」の嘗胆(胆をなめて会稽の恥を忘れず)である越王「勾践」は、その配下の范蠡が計画した「打倒呉国」を「くの一、西施」と遂行中なことを承知であった。西施はみすぼらしい姿の王を見て笑ったのでなく、呉王「夫差」はまんまと策に落ち、ここ霊岩山頂上に呉国の財を全て注ぎ込み、人心は呉王から離れているということを、「越王さま、計画はうまく行ってます」と言うのを笑みで代弁したのでないか。この観音洞のことを、西施洞とも言う。


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      霊岩山頂御花園の奥に玩月池がある。西施はここで2度目の笑顔を作っている。西施は贅沢の粋を尽くした館娃宮で暮らしても決して喜びの日々はなかった。それは打倒呉国の密命を帯びている以外、ふるさと「越」をいつも思い、日夜思い悩む毎日であったからだ。呉王は「あなたの望みを何でもかなえてあげた、できないのは月をここに持ってくることだ、それ以外は何でもしてあげる」、西施は言う「どうしても月が欲しい」。悩んだ呉王夫差は臣下の進言で、この山頂に池を掘り麓から汲んで来た水を張って池とした。満月の夜、呉王は西施を連れて御花園にできた池に行き、「さあ、月を手にしよう」と池に映る月を両手で取るように促すと、風に揺れる小波に揺れる月が西施の手に入ったのだ。「王様ご覧ください、私の手の中で月(月と越も漢語では同じYue)が遊んでいますよ」と得意気に笑ったと言う。その後、玩月池(月をもてあそぶ池)と呼ぶようになった。


      古書によると館娃宮は「銅鈎玉欄、飾以珠玉」といわれるくらいの、銅のかぎと玉の欄干、数々の宝石で飾られた御殿であった。唐の詩人「白居易」は蘇州刺史として赴任し、ここ霊岩山で「娃宮屧廊尋已傾、硯池香渓欲平、二三月時但草緑、幾百年来空月明」と詠っている。「館娃宮にあった響屧廊を探したが、既に壊れ硯池の香渓は消えようとしている。2、3月春の頃、草は緑になり幾百年も同じくむなしく月が照らしている」。この詩に出る「響屧廊」が、寺門右の霊岩塔と御花園を結ぶ梓の木で出きた長い廊下であった。この梓の木の下に大きな甕を一列に置き、女官が木靴で歩くとちょうど木琴の上を歩くのと同じく、美しい音色が奏でられるのである。呉王「夫差」はここまで粋を凝らした宮殿を造営したのだ。


      白居易に先立つ百年前に詩人「李白」がここで詠ったのが「蘇台覧古」である。白居易は李白の詩を十分に意識している。李白は霊岩山を照らす月について「唯今惟有西江月、曽照呉王宮裏人:ただ今ただ、西江の月があるだけ、かつて照らす呉王宮殿の人(西施)」と月は西施の時代から空しく照らしていますよと詠い、それを意識した白居易は、李白のあと百年も同じく月は空しく照らしていると、時間をより自分の時代にずらしている。この対句に時間の長さと霊岩山の変化のない様子を感じ取れる。白居易から1250年後の現在も、月は玩月池を照らしているからだ。


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      霊岩山寺を出て坂を少し降り、右手に太湖がきれいに見える場所がある。そこに亀に形をした岩がある。ちょうど頭が太湖に飛び込もうとしている。子供たちが登って馬に跨るような格好をしている。この亀石も同じく西施が上に登り傘下を見下ろしたといわれる岩である。


      参考文献:「西施」を尋ねて霊岩山に登る 【蘇州たより vol.6 】


    2016.01.28

    外灘に残る日本国総領事館と芥川龍之介との出会い 【蘇州たより 工藤和直】Vol.44 (読む時間:約4分半)

    • 上海にあった日本国領事館は執筆しないのですか、黄浦飯店が日本領事館跡なのですねと上海駐在の方々から質問がある。上海にあった日本租界地(正確には欧米各国を含めた共同租界地)については、多くの資料があるのでご参考頂きたい。最近、再開発という名目で昔の租界地の面影がなくなり、高層建築群の中に古い日本家屋や赤レンガ、そして日本人学校が徐々に消え行く状況だ。上海には5万人近い日本人が駐在し、多くの日本人観光客が訪問する。外灘の北に戦前10万人の日本人が住み、そこに古き良き日本が残っていた事を記録として残したいと考えた。
      上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦争のあと1842年の南京条約によって当時漁村に過ぎなかった上海港を欧米列国に開港したことから始まる。もちろん春秋戦国時代からの歴史もあるが、この2400万人が住む大都会が誕生するきっかけは1842年であり、まだ170年の歴史しかない(蘇州たよりVol.3)。


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      1930年代の上海が地図1である。中央部東西に共同租界、その南にフランス租界、北側の閘北や南側の城内、南市は中国側の上海市。「日本租界」というのは存在せず、共同租界の虹口地区(日本郵船埠頭のあたり)から閘北の新公園にかけて日本人住民の多かった地区を、勝手にそう呼んだ。地図中央に上海競馬場があるが、これは現在人民広場になっている(下写真)。当時の上海の玄関口は1987年まであった上海北駅で、現在の上海駅の東にあった。今の地下鉄3号線沿いである。1909年に上海駅として開業、1916年に上海北駅と改名、駅舎は4階建て洋風建築であったが、1937年日中戦争時に日本軍により空爆され、その後1950年に再建、現在は鉄路博物館となっている。現在の上海駅は当時の操車場跡地であった。


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      黄浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風建築物が英国領事館跡:写真1)を過ぎると交差点がある。正面右がチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級マンションだったブロードウエイマンション(現上海大厦)である。この黄浦路を右に行くとすぐにロシア領事館があり、80年前はソ連領事館である。その横にドイツ領事館があったが今は広場になっている。その横が米国領事館(現海鴎飯店)で、その東横に赤レンガの日本国総領事館(紅楼)が現存する。現在は海軍関係の施設になって内部には入れないが、その北が日本総領事館新館(灰楼)であり、連合国救済総署として使われ、現在もホテルとして利用(現在外国人は宿泊不可)できる黄浦飯店(黄浦路106号)となった(写真2)。正式な日本国総領事館跡は黄浦飯店の奥にある赤レンガ建屋である(黄浦路15号)。


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      写真3は、総領事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口码头)である。奥に見えるのが日本国総領事館で、左上が絵葉書に残る当時の姿である。明治初年、外務省上海出張所が1873年正式に日本領事館と改称、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領事館に昇格。現存建築は1911年竣工の二代目で、平野勇造設計の3階建煉瓦造。優美な曲線を描くマンサード屋根は黄浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また虹口码头は、かの毛沢東がフランスに行く時に利用した埠頭でもある。この日本郵船埠頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に300mほど行くと萬歳館などの旅館街が待っていた。多くの日本人は現在のハイアットホテルから閔行路を通り、大きな夢を持って日本人租界地に向かった。


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      萬歳館(閔行路181号)は1904年創業の旅館、芥川龍之介や佐藤春夫も泊まった当時著名な日本旅館であった。付近の日本旅館としては、豊陽館、東和洋行、常磐館などが一流どころだ。写真4は当時の萬歳館(旧館)であり、写真5が現在の姿である。写真6は閔行路対面の新館入り口付近である。周辺の再開発が進み、次に来るときは新しいビルになっているかもしれない。この旧館3階に芥川龍之介が逗留したのだ。芥川に会いに3階に上ったが、昔のホテルの各部屋は分譲アパートになっており、彼がどこに居たか分からない。ただ、暗い通路や階段に細かい細工を施した手すりや欄間などがあり、かつて芥川が居た痕跡は見られた(蘇州たよりVol.4)。


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      魯迅公園の南門を東西に四川北路が走る。この道路はしばらく東に行くと二股に分かれ右に曲がり南進するが、この東側に上海神社があった。北は華夏銀行から南は天興百貨にかけて南北にひょろ長くあり、1933年(昭和8年)11月1日に設立された。写真7は現在の天興百貨であるが、この付近に上海神社があった。写真8は当時の鳥居と藤井資也氏所蔵の本殿前での家族集合写真9である。ごく普通の日本の風景が、ここ上海にもあったのだ。


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      四川北路を南進すると、上海第一人民病院が東側にあるが、ここは1924年に日本人が開業した総合病院「福民病院」であり(写真10)、魯迅が通訳していたという。その福民病院を過ぎて商店街の間に正門があるのが、高等尋常小学校(北部小学校)である(四川北路1838号、虹口区教育学院実験校)。日本国内ではまだ木造校舎が一般的であった時代、ドイツ人設計による鉄筋4階建て校舎を1917年に建てた。守衛に許可を得て校庭に入れてもらい、100年前に建てられた建物を拝見(写真11)。ちなみに筆者が1959年に入学した宮崎県高鍋町立高鍋東小学校(蘇州たよりVol.12)は木造平屋建であった。1934年に母が入学したソウル市(京城府)東大門小学校は鉄筋で水洗トイレであったという。海外にあった日本人学校は極めて最新なコンクリート造りが多かった。


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      参考文献:エキスブロア上海「上海の旧租界地・歴史関連特集」
      木之内誠「上海歴史ガイドマップ」


    2016.01.18

    奉天(瀋陽市)の街並み変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.43 (読む時間:約3分半)

    • 春秋戦国時代、瀋陽の地は「燕国」であった。5世紀になると高句麗の治世が200年ほど続いた。明末1616年、後金を建国したヌルハチは明遠征軍を撃破して、瀋陽・遼陽を陥落させ、早々と新王宮(現在の瀋陽古宮)を建設。1634年、二代目皇帝ホンタイジは瀋陽を盛京と改名した。1644年フリン(順治帝)は国都を北京とし、盛京(遼陽城)は副都になった。1657年、「奉天承運」から命名して「奉天」と呼ばれ、1923年中華民国は正式に奉天市とした。1929年張学良が一時的に瀋陽に改名、1931年以降の日本統治下では、再び奉天と呼ばれた。


      奉天(現在の瀋陽市)は歴史の古い城郭都市である。しかも偽満州国は新たな都市計画を行い、従来の城郭都市の西側に、奉天駅から放射状・格子状に伸びる道路網を造った。いわば新旧の都市が同居している構造である(図3)。古い城壁のある街並みは、周囲7kmの内城と周囲16kmの外城の二重構造である。内城はほぼ正方形に近いが、外城は円形と言うかハート型とも言える城壁を有する。現在は、残念ながら城壁跡を確認することは困難であるが、かつての写真からその規模は極めて大きいことが言える。


      内城は東西南北にそれぞれ2つずつ合計8つの城門からなる。北は大北門・小北門、南は大南門・小南門、東が大東門・小東門、西が大西門・小西門で、大は大とつながり、小は小とつながる。現在その城壁は完全に消滅した(アパートや商店街になり、つなぎ部に城壁が残っている可能性は高い)。その城壁跡の外側は、東順城路・西順城路・南順城路・北順城路となっている。現在、観光用に大東・大西の城門が作られた。


      この内城の中に宮城(瀋陽故宮)があり、ヌルハチの皇居であった。その宮城の城壁跡が東西南北で言えば、朝陽街・正陽街・瀋陽路・中街である。実は、奉天は三重の城壁からなる珍しい構造を持つ城郭都市であった可能性が高い(同じ構造は東京開封城に見られる)。


      外城も同じく8つの城門からなる。内城と同じく、北は大北辺門・小北辺門、南は大南辺門・小南辺門、東が大東辺門・小東辺門、西が大西辺門・小西辺門である。20世紀になった西側に作られた新都市と旧城郭都市は、小西辺門付近で合体する。小西辺門は、現在瀋陽市政府の建屋(戦前は奉天公園)の東にあり、奉天駅から伸びる路面電車は、市府大路(十間房)を過ぎて小西辺門(市府広場)に至る。そこから更に東に小西門まで路面電車が通っていた。奉天公園の南は各国の領事館が密集している。フランス・イギリス・日本・ロシアは二偉路に並んでいる。アメリカ大使館は、初めは奉天公園の北にあったが、その後移転したようだ。


      表1と表2は、かつてのその場所での写真と現在の状態を比較したものである。駅や学校、政府関係庁舎などはまったく同じ用途で使われている。城門があった場所は自動車の普及とともにすっかり変わっていることが分かる。奉天神社は鳥居もないが、ただ神殿近くは松林のような森になっていた。日露戦争で勝利した大山巌元帥は、大南門から入城式を行ったが、絵に在るような城門はまったくない。繁華街として今では歩行者天国になっている四平街(中街)には昔と同じ建物が見られた。


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      奉天の新街路計画は、奉天駅を背にして、幅36mの千代田通り(瀋陽大道)を中心に、左45度に浪速通り(昭徳大街)と右45度に平安通り(現在は民主路)とし、格子状に街を作る。新京(長春市)や奉天(瀋陽市)は、都市道路衛生環境計画の点で、架空の電線を地下ケーブル埋設とし、当時の東京より数段すぐれた、他の西洋列国都市にもない非常にすばらしい都市になるべく計画された(地図3)。ちなみに西の要になる奉天駅は1910年10月1日から営業開始して105年になるが、東京駅(下写真)より4年も早く作られた。改札口に立つと分かるが、まさに古い駅舎であることが実感できる。


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      参考文献:おら、東京に行ったさ!【蘇州たより Vol.31】
           福原元澄「大連と瀋陽」
           加藤正宏「中国史跡探訪」


    2016.01.04

    新京(長春市)の街並み変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.42 (読む時間:約1分半)

    • 新京(現在は長春市)の新街路計画は、新京駅から南へ一直線に幅54mの大同大街(人民大街)を延ばし、1km先に大同広場(人民広場)を建設した。新京駅左45度に日本橋通り(勝利大街)、右45度に敷島通り(漢口大街)が走り、大同広場(人民広場)から6本の大街を放射状に作った。この広場の周囲に役所・銀行・警察署・電話局を置く。新京駅と孟家屯駅の中央に新駅を作り、そこから放射状に街路をまた作る。このように、放射状の大街と格子状の街路を並行して作ったのを特徴とする。新京は世界的にも模範となる都市になる予定であった。


      長春の街の特徴は、ただ偽満州国の遺跡が多く在るというだけでなく、計画的・実験的に世界にない街つくりを実施しつつ、途中で終わったと言う事であろう。そのため、現在のマンモス都市に発生した大きな公害や環境問題が出る前に終了しただけに、次の問題解決に繋がらなかったとも言える。


      長春城は、清朝末に下地図中央右に示す様に現在の人民広場から東方向にある伊通河沿いに周囲2kmほどの木柵で出きた小さい砦として作られた。現在は、その痕跡もないが東門路などの名前が残されている。


      偽満州国が設立された時の長春の人口は126,309人であった。1945年終戦時は716,815人(うち日本人は14万人)と記録されている。1945年8月8日ソ連が参戦した事で、大きな悲劇が起こった。8月11日に平壌に向けて軍人家族を乗せた列車が出たが、まともに避難できたのは、軍関係家族・大使館関係家族・満鉄関係家族の約3万8千人で、残りの10万人余は長春に取り残されると言う事態が発生、これがその後の残留孤児やシベリヤ抑留・婦女子への暴行などの悲劇に繋がった。


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    2015.12.22

    旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41 (読む時間:約5分)

    • 満州事変前、日本国は旧満州に4ヶ所の総領事館と8ヶ所の領事館、そして3ヶ所の領事分館と全部で15ヵ所の領事館があった。総領事館はハルビン・吉林・間島(延吉龍井)・奉天(瀋陽)、領事館はチチハル・長春・安東(丹東)・鉄嶺・鄭家屯(双遼)・遼陽・牛庄(営口)・赤峰(内モンゴル自治区)、分館は農安・通化・海龍(梅河口)である(図1)。戦前にあった中国内日本国領事館は、旧満州に15ヵ所、日本租界地(上海・天津・漢口・蘇州・杭州・重慶・沙市・福州・アモイ)に9ヶ所と南京・鄭州・済南・青島など合わせて28ヶ所である。


      紀元前8世紀春秋時代、東北地方は粛慎族(女真族や満州族の祖先)が割拠していた。5世紀になると高句麗が台頭、長春市農安県を王都とした。明代末になるとヌルハチ率いる満州族が台頭、奉天から長春を含む東北広範囲にその領土を増やし、清朝が明朝に代わって中原を支配した。西暦1800年には長春庁ができ、これが最初の行政庁開設となる。1889年には長春府に昇格、1896年にはロシアが清朝に満州鉄道敷設権を認めさせ、長春駅の北がロシア人専用住居となった。1906年日露戦争後は日本がロシアの権利を全て譲り受け、1908年満州鉄道主要駅となる長春駅が開設された。


      長春が脚光をあびるのは偽満州国成立時になる。1931年9月18日柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により旧満州全土が占領される。その後、関東軍の主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年3月9日偽満州国を建国。首都を新京(長春から改名)とし、元首(偽満州国執政、後に偽満州国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がついた。


      満州は本来の表記では「満洲」である。当用漢字に「洲」がないため「州」となった。満洲は本来地域の名でなく民族名である。清朝では、五行説も「水」徳を意識して、民族名・王朝名に「さんずい」を入れて、「満」「洲」「清」を選んだといわれる。


      偽満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にあった。当時の国際連盟加盟国の多くは、旧満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も偽満洲国を承認、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦さえも領土不可侵を約束して公館を設置、当時3分の1以上の国家と国交を結んだ。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかったが、国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易は行なわれた。第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻と日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に偽満洲国皇帝・溥儀が退位して偽満洲国は滅亡。この地域はソ連の支配下となり、次いで国民党率いる中華民国の支配下へと戻った。そして解放後は、中華人民共和国の領土となった。


      中華民国および中華人民共和国は、現代でも偽満洲国を独立国家とせず、「偽満洲国」と表記する。また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」と呼称する。


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      1937年当時の旧満州に居る邦人は、奉天:7.0万人、新京:3.4万人、撫順:2.5万人、安東:1.6万人、鞍山:1.1万人、四平:6千人、営口・公主嶺・鄭家屯・遼陽が4千人、合計18万人と記録されている。その後1941年頃には100万人を越え、1945年終戦時は150万人がいた。


      領事館の主たる業務は、在留日本人の保護と取締りである。その他中国内の政治・経済の現状調査や現地民衆の生活状況に関する情報収集、更には抗日運動に対する内偵と情報収集などが含まれる。いわゆる特高警察の機能も持っていた。特に偽満州国設立後の主な業務は、裁判権と警察権の行使で住民を管理することであった。1932年、長春は「新京」と名を替え、長春領事館は「日本国駐新京総領事館」と昇格した。


      長春領事館は1912年9月17日に竣工、総工事費15万5千5百円、加藤洋行が施工した。加藤洋行は他に同時期に吉林・奉天・牛庄領事館をも施工している。また建設設計にあたっては、辰野金吾による建築設計であった。赤レンガの壁に白色の花崗岩を横に配列する自由古典式の様相建築であった。地上二階・地下1階半の地下室があり、建築面積は1800m2である。長春総領事館跡地は、上海路にある吉林省政協弁公大院となり、新大院建設にあたり折除された。ただ、上海路入口付近にある松林は当時のままである。構造は奉天にある総領事館(現瀋陽市迎賓館北苑)とほぼ同じであったと言われる。


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      奉天総領事館跡は瀋陽市和平区三経街9号に現存する。1912年7月に竣工、3.4万m2の敷地を有する。三橋四郎設計による「辰野式」洋式である。1945年8月15日以降はソ連が領事館として使用、東北開放戦争の折には、宋美齢が居た。1985年以降、現在の瀋陽迎賓館北苑となってホテルとして利用されている。西隣の八一公園内には、英国・仏国領事館があったが今は建屋跡も一切ない。日本領事館の東側にはロシア領事館が現存する。奉天公園(現瀋陽市政府)の北に米国領事館があったが、現在は人民代表大会常務委員会になっている。


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      現存しているもう一つの領事館、間島日本総領事館の建屋写真を紹介したい。北朝鮮との国堺に近い延吉に近い龍井市六道河路869号にある領事館跡である。中国内でも数少ない日本領事館跡が残っている。間島は北朝鮮北東部にあり、偽満州国・ソ連との境界に近いだけに軍事上非常に重要な拠点であった。


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      日本人が入植すると当然のように「神社」と「お寺」が建造される。特に偽満州国においては、溥儀が清朝の祖宗と皇祖神天照大神を祀る事を宣誓した事で、偽満州国だけで300余の神社が創建された。また中国各地に拡大した日本人租界地でも同じく神社仏閣が競うように作られた。戦後、300余も神社は大半が破壊されたが、長春の新京神社北に鳥居が現存していることが分かった。また、加藤正宏氏によると、瀋陽市の北、文官屯にも鳥居が残っているとの報告もある。負の遺産である「鳥居」がなぜ残ったか、今後の調査を楽しみにしたい。写真は、長春駅から人民大街を数百m下った松江路に残る新京神社「北の鳥居」である。ここは市政府第二幼稚園となっている。ちょうど解体工事中で、次に来るときは消滅しているかも知れない。


      長春と瀋陽には偽満州国時代の多くの日本建築物が残され、そして今でも現役として使われている。政府関係建屋は市政府関係庁舎として、銀行は銀行、郵便局は郵便局、ホテルはホテル、学校は学校として、電信電話局はチャイナテレコムと言った具合だ。戦後、傀儡政権の建物であるが故に折除も考えられた。文化革命時に、一部は破壊された建屋もあったが、多くは今でも使用されていることに驚きを感じる。この70年、当然ながら民族傷痕として「撤去論」と文化財としての「保存論」が交錯し現在に至っているが、幸い使用価値としての有用性が優位であったが故に、現在まで残ったと思われる。


      旧満州に残る日本建築物は、西洋式と東洋式を融和した独特のもので、将来中日友好関係が進めば、世界文化遺産としての価値も出てくると信じる。次号から、遺産が多く残る「長春:新京」と「瀋陽:奉天」の二つについて建築物などを紹介する。


      参考文献:吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて【蘇州たより Vol.30】
           加藤正宏「中国史跡探訪


    2015.12.15

    幻に終わった沙市(荊州)日本人租界地を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.40 (読む時間:約5分)

    • 湖北省荊州市は、上海と四川省成都市を結ぶ東西の線と北京と海南島を結ぶ南北の線が交わる地点にある。まさに中国の中心部にある。現在の荊州市周辺は長江文明が栄えた地であった。6,000年前の大渓文化や屈家嶺文化の遺跡が出土している。また春秋戦国時代、楚の首都「郢」はこの周辺にあった。秦が楚を「荊」と改称したのが地名の始まりである。古代の地域名である荊州は周王朝以来いわれた九州のひとつで、「尚書」の夏書・禹貢によると冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、予州、梁州、雍州を指した。


      武帝は前漢初期(紀元前106年)に全国を十三州とし、荊州もそのひとつとなった。しかも、現在の湖北省と湖南省(「荊南」)に広くまたがっていた。荊州は長江中流の水運による交通と物流の拠点で戦略上の要地でもあり、「兵家必争の地」となった。後漢末期の赤壁の戦いは荊州市域の東部の烏林で起こっている。三国時代には魏・呉・蜀(蜀漢)三国の境界の地となった。南北朝時代、南朝の「梁」は後期に建康から江陵に首都を移し、その後「後梁」は引き続き江陵を首都とした。荊州を征する者が天下をも征すると言われ、荊州牧として劉備玄徳から信任されていた関羽は、呉王孫権によって捕えられ斬首、荊州を失った劉備玄徳は結局天下を取ることは出来なかった。


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      清朝以降、長江河港である沙市が発達した。日清戦争後、1895年下関条約で沙市は開港地となった。この条約で重慶・蘇州・杭州・沙市の4港の開港が承認され、1896年「沙市日本国領事館」が設置された。それぞれ専管租界地の準備に入り、沙市は明治31年(1898年)8月18日、17条の条約が調印された(中日沙市租借専約)。場所は、沿江大道南側で荊江大堤沿いにある文星楼を起点とし東南に1900m、端は玉和坪(洋码头)までの長方形の地域、約180,875坪と記録されている。しかし、調印前の5月8日、税関に放尿した暴漢を門番が殴打負傷させた事から、翌9日に治療費を求めに来た群衆が、ついには税関・招商局・日本領事館などに放火する事態「沙市事件」となった。この事件後に条約調印となっても、租界地運営の熱は冷め、幻の租界地となった。当時邦人は20名ほど駐留していた。写真は放火前の日本国領事館であるが、2階建て洋風建築であった。現在、文華中学がある辺りが租界地の中心になったと思われる。


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      文星楼は康煕年間に建設され、清代中期に現在地に移転、底辺が10m四方で15m高さの楼閣である。同治3年(1864年)に焼失し1941年に再建されたが、今は廃墟に近い建築物である。又の名を「奎文閣」とも言い、奎(とかき)とは、古代中国天文28宿の一つ。奎(とかき)星は文運を司る神様である。昔、科挙の試験を受ける青年がこの楼閣に通い、幸運に合格進士となったと言う。


      日中戦争では1940年6月に沙市は日本軍に占領され、終戦まで続いた。中華人民共和国成立後、荊州周辺は何度も行政区分の変更、1994年には沙市市・江陵県・荊州地区が併合し、「荊沙市」が発足した。1996年に荊州市と名称変更され現在に至っている。このように、現在の荊州市は6000年前から現在まで変わらない古都であり、周王朝以降は北(紀南城・郢城)→中央(荊州城)→南(沙市)と時代を追うごとに南下したと言える。古代から近代までを一望に見ることができる都市である。


      【楚の都:郢(えい)】


      春秋時代、周王朝の次の覇者にならんと中原で晋と斉が戦う中、長江中流域にあった楚国は独立した王国として存在した。それは貨幣に「金」を使ったように、非常に豊かな国であったからだ(上写真)。文公14年(紀元前613年)と昭公23年(紀元前519年)に春秋左氏伝に「郢に城く」とあるように、楚はその首都を度々遷都、その都度「郢」と名付けた。その場所は現在「紀南城遺跡」として確認される。その城壁は、ほぼ方形で一辺が3.5Km~4.5Kmの長さであった。この城壁は現在の荊州市の北にあり、周辺の山々には楚王以外漢の貴族の墓などが見られる。有名な前漢時代の男性ミイラは2100年前の紀元前167年頃のもので、紀南城の南で発見され、その保存状態の良さに関心する(荊州博物館内に保存)。


      戦国時代に入り強国になった秦は、紀元前278年将軍「白起」を送り、紀南城を攻めた。楚国は新たに紀南城の南に方1kmほどの新しい「郢城」を造営した。写真は、西の城壁遺構であるが、高さは3~4m、幅は15mほどの土塁であった。この「郢城」は荊州駅のすぐ北(やや北東)にある。


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      【漢・三国・明時代の荊州城をめぐる】


      三国時代、蜀の劉備玄徳の配下「関羽」が最初に城郭都市を作ったといわれる。下図にあるように、堀の周囲約11kmに渡り、城壁と城門を見ることができる。現在の高速鉄道「荊州駅」のほぼ南方向で、6つも門から構成されている。何と言っても特徴は、城壁と城門そして楼閣(東門と北門)が存在する事である。しかも城門は、二重構造(門が二つあり)になっており、中に入る敵兵を上から射殺すことが出来る。この構造を見ることで、中国内にかつてあった大半の城門は、このような設計であったと推定できる。


      6つ門は、東門が迎賓門と言われ、入口になる。ここには賓陽楼と言う楼閣がある。その南に小東門(公安門)、そこをしばらく行くとちょうど南門となる。そこから西に行くと西門(安瀾門)となり、そこから北に行くと楼閣のある大北門(拱極門)となる。大北門の前にある橋が得勝橋である。常勝将軍「関羽」はこの門から出発し、常に勝って戻って来たという。そこを東に行くと小北門(遠安門)となる。1周歩いても3時間半ほどである。現在は、自動車専用に東と北に更に新門が作られている。


      この荊州城内には博物館があり、6000年に渡る歴史遺産を見ることができる。その中でも前漢時代の男性のミイラと明代末の尼僧と思われる女性のミイラが展示されている。この女性の皮膚は500年後の今でも生きているが如くである(下図の左上写真)。


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      参考文献:面影がほとんどない重慶日本人租界地【蘇州たより Vol.33】
           吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて【蘇州たよりVol.30】
          武漢(漢口)にある日本国領事館跡を訪ねて【蘇州たよりVol.23】
           蘇州に残る「日本国領事館」跡 【蘇州たよりVol.1】


    2015.12.01

    突然消えた長江文明(日本人の祖先) 【蘇州たより 工藤和直】Vol.39 (読む時間:約4分半)

    • 1973年・1978年の発掘調査で、浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年~紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなど稲作の痕跡が発見された。河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明は黄河文明から始まった」という当時の定説を大きく覆す事になった。我々は世界4大文明として、メソポタニア・インダス・エジプト・黄河文明と教科書で習ったが、それに先立つ「長江文明」があったと再考せざるを得なくなった。


      20世紀前半、黄河文明(紀元前4000年頃)である仰韶文化(やんしゃおぶんか)が発見されて以降、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで中国の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域などの周辺地域に広がって行ったという見方が支配的であった。ところが、河姆渡遺跡により、この説は覆された。独自の文明が長江流域にあったのだ。しかも稲作を行っていた事から、その住居は高床式であった。


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      長江文明は稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。すなわち稲のDNAから見て、日本に来たのは長江の稲である。湖北省荊州長江中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000~2500年頃)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3500~2200年頃、周囲7kmに渡り城壁があり夏王朝以前にあった都市国家ともいわれる)の時代を最盛期として突然消滅したのは、黄河流域の二里頭文化(夏王朝:紀元前2000年頃)が南進したと推定される。良渚文化(浙江省余杭市良渚鎮)は馬家浜・崧沢を受け継ぎ、多数の玉器の他に絹が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明のひとつ竜山文化(ろんしゃんぶんか)とは相互に関係があったと見られ、紀元前2000年頃に同時に消滅したことから、夏王朝の人々により征服されたと考えられる(洪水説もある)。


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      苗族は長江中流湖北省の武漢から荊州にかけて長江文明(屈家嶺文化)を発展させた部族であるが、夏王朝の南進に因って故郷を追われ、現在の雲南に逃げた一族と、淅江省から海伝いに日本に逃げた一族に分かれると言われる。苗族の正月の風習は多くは日本人の風習と重なる点が多いし、日本人DNAにも苗族のDNAと共通する点もある。河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。本格的な発掘が始まってより40年ほどしか経っておらず、発見されたものの量に対して研究が追いついていないのが現状である。


      蘇州市東北に広がる陽澄湖の南岸に、草鞋山遺跡がある(唯亭鎮東北2km)。中日両国の考古学者が、5年の歳月をかけて発掘、調査した結果、蘇州の草鞋山遺跡一帯で暮らしていた中国の先住民は6千年前に水稲栽培を始めていたと認定した。これは福岡県の板付古代水田遺跡より3500年も早い時期のもので、これまでに発見された世界で最も古い古代稲田である。これは1994年宮崎大学で行われたシンポジウムで、中日両国の専門家の一致した結論である。この結論は、アジアにおける稲作起源の中心地は紀元前4000年頃に、長江沿いにあったとされる。


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      人類(ホモサピエンス)は14万年前の東アフリカタンザニアを起源とする。黒人の中から突然変異によって生まれた白色に近い人類は迫害を受ける中、サハラ砂漠を抜け、ナイル河を下り、7万年ほど前のイラン高原で、ヨーロッパ系とアジア系に分かれる。華人も日本人も7万年前を起源とする人類である。そして約5万年前にイラン高原からタリム盆地を抜け、中原に来た華人は黄河流域と長江流域に分かれ、それぞれ独特の文明を築く。日本民族は約4万年前にモンゴル高原から朝鮮半島もしくは樺太を越えて移住した民族によって、旧石器・縄文文化が栄えるが、紀元前8世紀には、長江を追われた稲作や鉄器などの近代文明を擁する弥生民族が南方から九州に移住、現存の縄文人との混血により現代日本民族が出来上がったと考えられる。この弥生民族こそが夏王朝によって追い出された長江民族(苗族)であったと予想される。最近の研究で日本の弥生時代は500年ほど早い紀元前8世紀と言う新説がある。また、中央アジアのキルギス族の間では、遠い昔キルギスの兄弟の一方が遠く日本に渡り日本人になったという話が伝わっている。確かに、キルギス族は何となく日本人に風貌が似ているのも事実である。


      古事記は、その名が示すように古事(民族の起源)を記録した書である。天皇の系譜を表した帝記と神話や伝承を記した旧辞から構成される。この旧辞の中に天孫降臨の巻があるが、伝説とは言え高千穂の峰(鹿児島県および宮崎県)に降臨されたニニギノミコト他の神々はしばらく鹿児島の薩摩半島南端(現在の野間岬)に居られたという伝説から見て、この神々こそが新文明をもたらした弥生人(長江文明人)であった可能性が極めて高い。


      日本語は、文法面から見るとモンゴル語・朝鮮語・トルコ語と同じアルタイ語族になるが、発音から見るとタミル語や江南地方の呉語に近いとも言われる。蘇州語の単語の中に、日本語と同じ発音で同意語が見られるのは、単なる偶然とは思われない。


      参考文献:鳥越憲三郎「古代中国と倭族」
           中国まるごと百科事典(長江文明)


    2015.11.25

    習近平談話に出る林則徐「海納百川」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.38 (読む時間:約3分)

    • 林則徐はアヘン禁輸の欽差大臣となって英国とのアヘン戦争に負け、左遷させられた清朝時代の官僚であったが、1832年から江蘇巡憮(長官)として蘇州に赴任した経歴がある。彼が執務した書院巷北にある江蘇巡憮院署の門柱に「海納百川有容乃大(海は百川をおさめ容の大なる有り)、壁立千丈無欲則剛(壁は千丈に立ち無欲にしてすなわち剛し)」の書画がある。今では、習近平主席を含め多くの政治家が唱える政治模範になっている言葉である。最近では、オバマ大統領が中国訪問された時、習近平談話の中に、この「海納百川」があった。


      林 則徐(Lín Zéxú、1785年8月30日 ~ 1850年11月22日)は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。字は少穆(Shǎomù)。諡は文忠(Wénzhōng)。イギリスによるアヘン密輸の取り締まりを強行、これに対する制裁としてイギリスはアヘン戦争を引き起こした。江蘇巡撫のあと、1837年(道光17年)から湖広総督(現在の湖北省と湖南省を合わせた地方長官)になる。この時に管内でのアヘン根絶に実績を上げ、黄爵滋の「阿片厳禁論」に賛同し上書、その実績と議論の精密さを道光帝は評価、1838年に林則徐をアヘン禁輸の欽差大臣に任命した。


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      1839年(道光19年)、広東に到着した林則徐は、イギリス商人が持っているアヘンを全て没収、処分した。これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的に1840年アヘン戦争を引き起こすことになった。現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリス東洋艦隊は、広東ではなく北京に近い天津に現れた。間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽、慌てて林則徐を解任、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任となった琦善は、ひたすらイギリスに低姿勢で臨んだ結果、清が大幅に譲歩した南京条約を1842年に結ぶことになった。


      欽差大臣を解任された林則徐は新疆に左遷された。しかし、彼はここで農地改革を行い、善政を布いた事で住民から慕われた。常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた姿は後世の人間から深く尊敬されている。林則徐にとって、この地で南下しようとするロシア帝国の脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来、清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残した。1849年(道光29年)に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。そして任地に赴く道中、普寧で病死した。


      1832年から1837年、江蘇巡憮(江蘇省長官)として赴任した場所が、写真の巡憮院署である。清代には明の制度を踏襲して巡撫は省の長官とされ、総督とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。蘇州市人民路は蘇州城内を南北に貫く大道である。葑門(東門)から東西に走る十全街が人民路にぶつかる四つ角から書院巷に入るが、その北にあるのが「巡憮署」の建屋になる。ちょうど蘇州中学の北の対面になり、現在は衛生職業技術学院の玄関門になる。


      林則徐は座右の銘としてこの漢詩を愛したという(下記の書画は本人自筆)。海は百(無数)の川を受け入れるからこそ、あれだけの大きさを持っている。山は千丈(無限)の高さを持ちながら、無欲であるからこそ強さを持っている。「自我を主張せず他者を受け入れられる者のほうが、結局は大きく強いのだ」という意味だ。これを習近平主席はオバマ大統領に言いたかったのだろう。


      この漢詩は林則徐の作ではないが、その出処を調べると、“海納百川”は管子-形成解編に“海不辞水、故能成其大”がある。“有容乃大は尚書-君陳編に“有容德乃大”とある。“壁立千丈”は水経-河水注編に“其山惟石、壁立千丈、臨之目眩”との表現があり、“無欲則剛”の出処は未定であるが、論語の公治長に類似表現がある。


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    2015.11.13

    18世紀の清代蘇州都市「姑蘇繁華図」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.37 (読む時間:約3分)

    • 初めてこの絵巻物を見たのは8年以上も前、蘇州博物館であった。縦20cm余りで、長さは7mにもなる図巻である。驚いたのはその精巧な書き方と店先にかけた看板の字が読めること、そして一人ひとりの人間にそれぞれ動きがあり、表情がある事であった。この絵巻物は西暦1759年、時の清朝皇帝乾隆帝に献上されたものである。作者は徐揚、蘇州呉県出身の宮廷画家である。当初この絵巻物は「盛世滋生図」と呼ばれたが、1950年に「姑蘇繁華図」と改名された。乾隆帝の治下の時代は、その祖父・康煕帝の時代と共に「康乾盛世」と称され、清が最も国力が強く、社会が安定し豊かな時代であった。


      この姑蘇(蘇州の古い言い方)繁華図は、まさに18世紀の蘇州城外の繁栄した風景を現した一級品である。当時の蘇州は、北京に次ぐ中国第二の大都会であったという。絵の巻末に作者自身の書き込みがある(最後の絵)。その図は霊岩山より木讀(Mu Du)を経て東に行き、横山、石湖を渡り、上方山を通り過ぎ、獅子山を西に見ながら姑蘇郡の城に至る。葑・盤・胥の三門を経由して、閶門から山塘橋を曲がり虎丘に至る。この絵のすばらしさは、現在の蘇州風景と比較できる点にある。


      作者の徐揚は、代々閶門専諸巷に住み、乾隆帝南巡(西暦1751年)に際し自分が描いた冊子を献上、その才能を認められて北京の宮廷画家となったと言われている。この姑蘇繁栄図は清朝崩壊後、廃帝溥儀によって北京故宮から長春(新京)に持ち出され、偽満州国が滅ぶ間際に民間に流出、1945年から遼寧博物館所蔵、現在国家第一級文物と指定されている。


      ではこの絵巻物を大きく八つに分けてその絵画とともに紹介したい。大きく、霊岩山・木瀆鎮・石湖・盤門・万年橋・閶門・山塘橋・虎丘山に分けて説明する。


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      蘇州城の西三十里にある著名な景勝地・霊岩山の前にある小さな村の情景である。霊岩山には呉王夫差が西施のために作った離宮があったが、越に滅ぼされ離宮は消滅した。


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      霊岩山より東に向かうと、著名な木瀆鎮に入る。呉王夫差は姑蘇台を築くため、ここに木を積み水路を満たしたことから木瀆と呼ばれるようになったと伝えられる。一女性のために、運河や街をつくる。これこそ西施が傾城の美女と言われる所以であろう。


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      石湖は蘇州の盤門の西南十里にある。周囲は数十里あり、茶磨峰、上方山、呉山の諸峰が湖と映えあっている。北は越来渓へと連なり、横塘へと続く。ここに見える越城橋(手前)と行春橋(奥)は現存する。


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        盤門は城の西南の隅にあり、胥門は城の西側にある二門のうちの南の門にあたる。門外から京杭(北京ー杭州)大運河に向かうには、呉門橋から南下して五龍橋を抜ける。


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      三つの橋孔を持つ大規模な橋、万年橋がある。現在の橋は3孔アーチ式となっている。かつては折橋だった。なぜか、万年橋の右に存在する胥門が描かれてない。歴史上の不思議である。この付近は清朝では閶門と同じく非常に繁栄した。解放後の1960年代には一時貧民街のようになったが、地域開発の過程で昔からあった胥門が発見された経緯がある。


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      閶門は蘇州の西の城壁の北側の門で、門の内外はともに商業の盛んな地域である。現在、閶門はこの絵のようになってない。1840年代はアヘンで汚れた街ともなったが、蘇州で一番賑わった界隈である。遠くに北塔寺が見える。


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      閶門を過ぎたところに「山塘橋」と書かれたアーチ型の橋がある。その左側が山塘街である。現在は観光客で昼夜繫盛する街路となったが、10年前は汚い路地裏であった。虎丘までの道を歩いて見ませんか?


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      虎丘山は蘇州城の西北七里の地に位置し、標高約30m余りの小高い丘である。春秋のころ、呉王夫差は父闔閭をここに葬った。


      どうでしょう、現在も同じ道を歩いて、270年前の蘇州と比較して見ては如何ですか?きっと新たな発見が待っています。


      参考文献:姑蘇繁華図(中国書店)

    2015.11.10

    幕末の志士に影響した蘇州詩人「高青邱」 【蘇州たより 工藤和直】Vol.36 (読む時間:約4分)

    • 寒山寺楓橋と言えばすぐに唐詩に出てくる張継作「楓橋夜泊」が有名であるが、明代当初の蘇州出身の詩人「高青邱」(西暦1336~1374年)を忘れてはならない。幼少より神童とうたわれ、書に読まざるはなしといわれるほどの博学と知られた。蘇州効外「青邱」にて在野の詩人として活躍するが、明の太祖から39歳で腰斬の刑に処せられた。姑蘇城外楓橋から逃げようとした時、死を覚悟して詠った最後の漢詩が「絶命詩」である。彼の詩には性格によるものだが、慷慨に満ちた力強さを感じる。江戸幕末の志士はこの漢詩を愛唱したという。


      「絶命詩」
      楓橋北望草斑斑  楓橋、北望すれば草斑斑(はんばん)たり
      十去行人九不還  十去の行人、九は還らず
      自知清徹原無愧  自ら知る清徹 もとより憚(はばか)るなし
      蓋倩長江鑑此心  むしろ長江を雇うて この心を鑑(かんが)みるべし


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      高青邱は蘇州城内中央にある「飲馬橋」から数10m東の「夏候橋」近くに寓居があった。ここは、宋時代に「平江府」と言われた行政センターがあった場所だ。また「夏候橋」から北へ向かう運河は、元末時代に埋められ道路となったが、かつて呉王「夫差」の時代、子城(宮城)の西堀に当たり、「錦帆渓」と呼ばれた。


      「錦帆渓」
      水繞荒城柳半枯   水は荒城をめぐって、柳半ば枯れ
      錦帆去後故宮蕪   錦帆去ってのち、故宮蕪す
      窮奢畢竟輸漁夫   奢をきわめて畢界漁夫に輸す
      長保秋風一幅蒲   長く保つ秋風、一幅の蒲


      錦帆渓はかつて子城の西にあった堀である。呉王夫差は西施を連れてここから舟遊びをした。それはかれこれ1800年も前であったが、同じく知人張士誠はこの子城に入って王府と称し、最後には朱元樟によって子城は焼かれ、錦帆渓も埋まってしまった。


      行香子(芙蓉)は、高青邱の詩的技法が最も顕著に出た漢詩(詞律)である。これほどの詩人が腰残の刑で散ったのは実に惜しいが、その短い人生であったがために、最高の作品となった。秋に紅く咲く芙蓉の花にたとえた「人のむなしさ」、「自然の広大さ」がこの中調詞律の中に見える。


      「行香子(芙蓉)」
      如此紅妝      かくの如き紅妝(こうしょう)
      不見春光      春の光を見ず。
      向菊前蓮後纔芳   菊の前蓮の後にわずかに芳う
      雁来時節      雁来るの時節
      寒沁羅掌      寒さは羅掌(らしょう)にしみる
      正一番風      正に一番の風
      一番雨       一番の雨
      一番霜       一番の霜


      蘭舟不採      蘭舟はとらず
      寂莫横塘      寂莫として塘に横たわる
      強相依暮柳成行   しいて相より、暮柳行(ぎょう)を成す
      湘江路遠      湘江のみちは遠く
      呉苑池荒      呉苑の池は荒れる
      恨月濛濛      恨月(こんげつ)濛濛(もうもう)
      人杳杳       人は杳杳(ようよう)
      水茫茫       水は茫茫(ぼうぼう)


      高青邱は、漢時代の中国4大美人「王昭君」についてもすばらしい詩を残している。漢の武帝はその後宮に多くの女官を抱え、その全てに会うことができず、画家にその姿を書かせ、それによってお召しになると言うシステムであった。そのため多くの女官は画家に賄賂を渡し、少しでも美人に書かせる、逆に賄賂のない者は“醜く描く”という有様であった。


      漢帝国は強大ではあったが、北方の異民族から常に脅かされていた。その対応策として武帝は絵画から醜い女官を匈奴の首領に贈ることにした。いよいよ北の国に去る別れの挨拶に来た女官「王昭君」は、周りの者をも驚かす美しさであった。武帝は「しまった」と思ったがもう決めた人選を覆すこともできず、悔やむだけとなった。哀れ王昭君は泣く泣く北国に行き、その地で没したという。


      「高青邱:王昭君」
      都門塵拂春風面  ともん塵ははらう春風のおもて
      臨別看花涙如霰  別れにのぞんで花をみる、涙、あられの如し
      君王惆悵惜蛾眉  君王ちょうちょう、蛾眉をおしむ
      不似前時画中見  似ずぜんじ画中に見る


      青邱に先立つ3百年前の唐時代、同じくは白居易は「王昭君」について以下の詩がある。青邱はこの詩を意識した書き方になっている。白居易は唐時代蘇州刺史(長官)として治世をみた先人でもあった。白居易17歳の時の作と言われる。


      「白居易:王昭君」
      満面胡砂満鬢風  おもてに満る胡砂、鬢に満る風
      眉鎖残黛臉鎖紅  まゆは残黛(ざんたい)に消え、臉(かお)は紅(べに)消ゆ
      愁苦辛勤顦顇尽  愁苦辛勤(しんくしんきん)して顦顇(しょうれい)を尽す
      如今劫似画図中  如今(じょこん)かえって画図(がと)の中に似たり


      これらの詩のポイントは第四句にある。“悲しみ・苦しみ・やつれ果てた姿は、今となっては醜く書かれた画そのものであった”と白居易は表現したのに対に、青邱の四句にあるのは、“出立も同じく美しい姿である”と中国4大美人「王昭君」の美しさを表現している。実に白居易をしのぐ高尚な詩である。


      kudou36-04


      参考文献: 西施を尋ねて霊岩山に登る【蘇州たより Vol.6】
      高青邱全詩集(日本図書)

       

    2015.11.02
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