新規登録
コラムニスト募集中
日経新聞
DMMコラム
蘇州たより
上海の街角で
JETRO
上海日本商工クラブ
在上海日本国総領事館
ラクト
上海人
香港リーダーズ
C.L.Mリーダーズ
経営者.マガジン読者の集い
2015稲盛和夫経営哲学上海報告会
中国ニュース
人気ページランキング
  • 今週
  • 今月
  • 殿堂
  • SCS Global コラムVol.1

  • ベネフィット・ワン コラム vol.33

  • これまでの手法にとらわれない、新しい消費者調査をご提案します。

  • 池田博明コラム マイツプラスワン vol.31

  • “One Team, No Border” 日本と中国を繋ぐConsulting業務を誠実さをもって全力で提供しております

  • SCS Global コラムVol.1

  • 池田博明コラム マイツプラスワン vol.31

  • これまでの手法にとらわれない、新しい消費者調査をご提案します。

  • ベネフィット・ワン コラム vol.33

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座vol4

  • “One Team, No Border” 会計税務を中心に企業のグローバル化を全力で支援しております。

  • ビジネスシーンで活用する中国語講座 vol.8

  • 微博・微信を中心とする中国ソーシャルソリューションサービスをワンストップで提供しています。

  • 中国事業で法務の重要性は高まる一方です。困難な事業環境を乗切る真の価値ある助言を目指します

  • 会計税務顧問、連結決算、財務DD、移転価格税制など日中の会計税務に関するサービスを提供

コラム「蘇州たより」

中国で最も古い石橋と一番長い石橋 【蘇州たより 工藤和直】Vol.35 (読む時間:約3分)

    • 唐時代、蘇州情景を詠った白居易の漢詩の中に「紅蘭390橋」とあり、宋時代紹定2年(西暦1229年)、文廟にある「平江図」には359の橋が刻まれている。そして2013年に筆者が足で調査するに、蘇州城内には172橋があり、その内現在も宋代から同じ位置に存在が確認できるのは85橋である。残念ながら、多くは明・清そして民国時代に改修が進み、当時の雄姿を今でも残している橋は少ない。


      6、7千年前、現在の呉江梅堰龍南当たりの川沿いに原始部落が有り、川沿いに建てられた村間と村間の間に木板を敷いたことで、簡易な橋ができた。これが蘇州で一番古い橋と認定されている。春秋後期(紀元前512年)蘇州城は周囲48里、8陸門・8水門があり、城内には臨頓橋・烏鵲橋・帯城橋・苑橋・憩橋が記録され、その後秦代には昇平橋・織里橋・乗魚橋・剪金橋・呉王橋、漢代には皋(Gao)橋・顧家橋、三国呉時代には市中心部に楽橋が記録されている。


      中国に現存する「最も古い石橋」は、河北省石家荘市趙州鎮にある趙州橋(安済橋)、橋長51m(アーチ式)である。隋代大業年間(西暦605~618年)と言えば日本の飛鳥時代であり、小野妹子が遣隋使として朝貢した頃である。もう1400年になろうとしている(写真)。


      橋の長さで言えば、宋代西暦1047年木造として創建された呉江市「垂虹橋」は、西暦1325年に全長450mに渡る淅江省最長の石橋(99孔)として再建されたことが記録されている。残念ながら、現在は3つに分断し、最長40~50mとなっている。ここは月の名所でもあり「十里波光連宝帯、一湾月影映垂虹」と詠われている。詩中の宝帯は蘇州呉中の宝帯橋のことである。


      kudou35-03 kudou35-04


      蘇州市呉中区に317mの「宝帯橋」がある(地下鉄2号線宝帯橋南駅から徒歩15分)。又の名を「長橋」とも言う。現存では「中国内最長」であり、蘇州城南東部にある滅渡橋から真南に3km下ったところにある。この橋は元々の目的が道と道をつなぐ2次空間の接合でなく、船を縄で引く労働者のために作った橋であるのが特長である。杭州から嘉興・呉江と北上した大運河は蘇州城東南部3kmの所で、右折すれば上海、左折すれば大運河で蘇州城外寒山寺を通り無錫へ、直進すれば3kmで滅渡橋から蘇州城内に入る事ができる交通の要所にある。長橋と言われるように317m長さで53孔のアーチ式であり、上部は平坦である。創建は唐代元和12年(西暦816年)、蘇州刺史(知事)の王仲舒が宝の帯を売って作ったといわれる。現代の橋は明代正統7年(西暦1442年)に再建されたものである。中国に現存する「一番長い石橋」である。杭州から来た船をただひたすらに北方向に縄で引っ張る労働者の姿を、かの日本から来た遣唐使一行も見たであろう。現代では日中戦争時、日本陸軍の空爆で南6孔が破壊されたと記録がある。この宝帯橋の西、大運河に沿って行くと西塘河があるが、そこにあるのが五龍橋(5孔アーチ式)である。南宋淳煕年間(西暦1174~1185年)創建であり、宋時代の趣がある石橋である。


      ちなみに、蘇州内で最も短い橋は、網師園内の引静橋(三歩橋)である。網師園は十全街帯城橋から少し南に入った狭い路地にある(新区から511番バス網師園北下車)。南宋時代史正志侍郎の「万巻堂」に清時代乾隆年間に宋宗元が庭園を造り、自分を漁師になぞらえて“漁隠”の意味で「網師園」と名付けた。1979年、アメリカのニューヨークにある「メトロポリタン芸術博物館」にある庭園は、網師園をモデルにして作られ、その名を海外に馳せた経緯がある。敷地は5500m2と典型的な江南式で非常に小ぶりな庭園であるが、「留園」とともに非常に美しい。この庭園は池を中心に作られ、鏡の如く広がる池に写る月は手に取るが如くで、中秋の夜に一度は訪れたい蘇州庭園の一つである。この池の南東部端に小さな橋がある。これが「三歩橋」である。


      kudou35-05 kudou35-06


    2015.10.21

    蒋介石と林彪との接点(蘇州南園賓館) 【蘇州たより 工藤和直】Vol.34 (読む時間:約2分半)

    • 蘇州旧市街の中央に十全街と言う東西に走る馬路がある。東端は蘇州城東門にあたる葑門、西は西門にあたる胥門を結ぶ、昔で言えば蘇州城内メインストリートである。道沿いのプラタナス(法国梧桐)も大きく成長し年代を感じさせる。人民路との十字路からしばらく東に歩くと烏鵲橋と言う小さい平橋があるが、この橋は100年前この辺り最大のアーチ橋であった。烏鵲(Wu Que)橋は蘇州城創成期からある古い橋で、2500年前の呉王夫差の住居「烏鵲館」が近くにあったことに由来する。夏の天の川に鵲(カササギ)が渡る橋と言う意味である。

       

      そこを過ぎると右側に南園賓館と言う古いホテルがある。蘇州南園賓館(ナンユエンビンガン)は1952年に蘇州市国賓館になり、50数年来の国賓館で国内外の著名人が宿泊したホテルである。別荘方式で宿泊建屋が敷地内に点在している。その中に蒋介石の養子(次男:蒋緯国)の居寓であった建物があり、その3階は蒋介石の別宅であった(下記は入口写真)。今では新婚夫婦の写真スポットでもあり、中の部屋の家具に歴史を感じる。

       

      kudou34-03

      蒋介石は国民党の主席であり軍人でもあるが、彼が台湾に去るまで、こよなく蘇州を愛した一人でもある。蒋介石には4人の夫人が居た。ただ重婚ではないかと疑いたくなるほど奇妙と言うか巧妙と言うか、革命の為(資金の為)なのか、妻の実家の金が目的でないかと疑うくらい政略結婚を繰り返したような気もする。

       

      最初の妻は蒋介石の故郷奉化県の毛福梅(1921年日本軍の空爆で死亡)である。長男の経国は福梅の子になる。第二夫人(妾か?)が姚治誠であるが、養子である緯国を養育し、この別荘で共に生活をしている。第三夫人が蘇州の金持ちの娘、陳潔如である。どうも実家のお金が目当てで、第一夫人が爆死した後添えとしたが、結婚にあたり妾の治誠はどうするのか?と詰問した経緯がある。第四夫人があの宋家三人娘の三女「宋美齢」である。実家の浙江財閥のお金とアメリカ育ちの雄弁な英語力で、彼の名前を世界に示させた賢夫人となった。美齢無くば、蒋介石は唯の軍人で終わったであろう。

       

      この蒋緯国の居寓の下が、何と共産党主席に成れなかった“林彪”のアジトになっているから面白い。国民党が去ったのち、当時共産党副主席“林彪”の寓居になった。彼は抗日戦争時に肺に被弾、大連や蘇州で治療する事が多く、この関係で蘇州のこの地が保養所となった。

       

      kudou34-04


      林彪がクーデターを計画した理由は、毛沢東の国家主席撤廃に対し存続を主張した事と言われている。クーデターがありえると予想された。林彪の息子で空軍を指揮する林立果は、毛沢東を倒し新政権樹立を計画した「571工程紀要」作成(571は武起義:Wu Qu Yiと同音)を実施に移したが、事前に情報が漏れ、林彪は妻の葉群とソ連に亡命する途中モンゴル上空で墜落、パイロット他9名全員が死亡した。

       

      林彪事件はおそらく近代中国史上最大の謎である。毛沢東の「最も親密な戦友」として文化革命推進にも扮装し、次期後継者を約束された林彪が、ともあろうにも毛沢東暗殺に失敗、1971年9月13日モンゴルの草原で墜落死した。蘇州城内の清閑なホテルであるが、“国民党”と“共産党”、意外な場所で意外な接点があるものである。

    2015.10.09

    面影がほとんどない重慶日本人租界地 【蘇州たより 工藤和直】Vol.33 (読む時間:約4分)


    • 宋王朝時代の西暦1189年、時の皇帝が「慶びが重なった」と言う意味で恭州が「重慶府」と改名されて825年になる。重慶の歴史は古く、夏・殷・周時代は岩塩採掘が行われ、巴国文明が誕生した。巴国は春秋戦国時代、東隣の楚国と常に戦い続けてきたが、紀元前316年秦の恵文王は巴国を滅ぼし、巴国の支城の一つであった江州城を築城した。この城跡は、北の嘉陵江と南の長江が合流する「朝天門」付近であった(写真1は現在の朝天門江州城全景)。


      漢時代は江州と呼ばれ、三国時代には蜀の劉備玄徳の所領となり、諸葛孔明がここに駐屯することもあった。隋・唐時代は渝水(今の嘉陵江の名)沿いにあるという事で「渝州」と呼ばれた。以後、重慶の地は「渝」と言われるようになった。宋時代に重慶と改名されたが、最大の危機は西暦1259年南宋末にモンゴル帝国が四川方面から南下、成都城と重慶本城(江州城)を取り囲んだ時であった。この時はモンゴル皇帝の病死で一端は撤退するが、2回目の1278年には、ついに落城する運命となる。


      重慶本城(江州城)は北東部「朝天門」から西部の「通遠門」間の岩山を利用した要害の地である。江州城は朝天門、東水門、太平門、通遠門など17の門から成り、支城として嘉陵江対岸になる江北城と西部の山城の三つから構成されていた(地図参照)。この岩山を長江や嘉陵江の河側から攻めるのは不可能に近く、西側から攻めるしかない。この西部にある通遠門(写真2)が最大の激戦地となった。写真3から見ても10m近い絶壁に囲まれ、攻めるに困難な城ではあったが、西暦1276年に南宋王朝はすでに広州で滅び、モンゴル軍の猛攻で重慶城もついには降伏、城内の多くの兵士・住民が惨殺されたという。


      重慶は岩山の中にできた街と言っても過言ではない。どこに行っても坂・坂・坂である。ホテルのエレベータのどの階に降りても玄関前に道がある。岩山の斜めの傾きに沿ってホテルの建屋があるからである。


      kudou33-03


      kudou33-04


      清末になると、英国をスタートに諸外国の中国大陸侵略が始まる。1876年9月13日の英中間で結ばれた煙台条約により英国が領事館を開設、1890年には重慶港が開港する。1891年3月1日には、朝天門付近に税関が開設された。1896年7月の通商行船条約により、仏国・米国・日本が領事館を開設した。日本領事館はどこにできたか明確ではないが、おそらくは英米領事館付近(現在の通遠門内の渝中区領事巷)にあったと予想する。1896年2月、上海総領事の珍田舎己が重慶に赴き、日本人租界地要求の交渉に入った。1901年9月24日に重慶領事官山崎桂が、22か条の重慶日本商民租界約書を結ぶに至り、ここで日本人租界地開設の一歩となった。


      kudou33-05 kudou33-06


      日本人租界地は、重慶府朝天門外の南岸区「王家沱」となった。写真4は当時の租界地(長江沿い)で.遠くに江北、朝天門が見える。現在は朝天門長江大橋を江北区から渡り、衛国路南北にある武警重慶総隊医院(写真5)付近である。大橋を渡った長江岸辺付近から西に1320m、南に350mの長方形の敷地(約467,000m2)である。日本租界に面した「公共通商場」跡地の南に、フランス水師営建屋(写真6)がある。今の武警医院の中にわずかであるが、日本人建屋の痕跡があったが、資料にあった税務署などはいっさい残っていない。医院内に日軍倶楽部跡があると聞き探したが、見つけることはできなかった(誰に聞いても不知道)。1937年日中戦争時に100名程引き揚げたと記録があるように、日本人街があった予想するが、その痕跡はなかった。蘇州・杭州と同じく日本の面影が乏しい租界地跡である。


      kudou33-07 kudou33-08


      kudou33-09


      租借期間は30年で、租界地内の警察権や道路管理は日本領事館が担当することになった。租借金は一畒(666m2)あたり上等地で銀150元、中等地で145元、下等地で140元であった。おそらく長江に近い平坦地は高く、東の丘の方は安くなっていると予想する。日本国領事館もこの地に移転したとも考えられるが、蘇州や奉天で見られる重厚な石造りの建物はどこにもなかった。22か条の条約の詳細を見るも、大概が日本領事官の裁量による所が多く、治外法権の上に警察権も持っている点は、満州国に作られた日本国領事館と何ら差はない。領事館の役割の中で「警察権」が非常に大きな権力であったようだ。


      契約期間は1931年の9月24日であったが、国民党政府から7月30日に強制的に没収され、重慶日本人租界地は終了することになった。最後の交渉に当たったのが清野長太郎領事であった。清野領事は中国側の記録に、在渝日本領事となっていることからして、日本領事館は渝中の領事巷にずっとあったとも考えられる。


      参考文献:大陸「西遊記」(BTG城郭都市研究会)
      吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて【蘇州たより Vol.30】


    2015.09.28

    京城三越百貨店を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】vol.32 (読む時間:約2分半)


    • 「蘇州たより」と言いながら、なぜか韓国ソウル(戦前は京城)に話が飛びました。これも蘇州大丸百貨店や大連三越百貨店を調べているうちに、意外と祖父が関係していたのが分かったのがきっかけです。母方の父(小生の祖父)は鬼籍に入ってもう20年になる。百歳前に風邪にかかり、その翌朝には亡くなった。病名は「肺炎」、人生最後はこういう死に方がしたいといつも思う。苦しんだ跡も無かったようだ。せめて死に方(老衰)だけは遺伝して欲しいと思いつつ、常々の不摂生を反省ばかりしている。


      この5月連休に帰国した時、久しぶりに宮崎に帰省、母に亡くなった祖父と共に京城に行った時の話しを改めて聞くと、当時は京城三越百貨店主催の秋の大運動会が近くのグラウンドであったと言う。祖父は建築事務所(多田工務店)に勤めていた。


      母の一家は戦後ソウルから日本に引き上げた家族である。ソウル(当時の京城)に母が3歳~18歳と言うから15年近く居た事になる。家はソウル市の東、東大門市場付近であった。母が通った東大門小学校は戦後現地の中学校になり、1990年代までは現存していた。


      蘇州たより Vol.2で書いたが、蘇州大丸を調べているうち、三越はソウルに日本初の海外展開を行い(1906年)、翌年には大連にも出店を作った(1907年)。大連三越は今でも市内中山路に秋林女店としてピンク色にはなったが建屋がそのまま使われている。大連は本当に日本の建築物が多い。満鉄経営の旧大和ホテル(大連賓館)も今でも使われている。上海外灘の多くに石造り建築物もそうだが、百年以上も経ってもしっかり使えるのは、日本建築技術がそれだけレベルが高かったからであろう。大和ホテルは大連以外、奉天(瀋陽)、新京(長春)などにも現存し、今でもホテルとして使われており、宿泊が可能である。写真は、旧奉天大和ホテル(瀋陽遼寧賓館)と格調高い吹抜けの螺旋階段である。


      kudou32-03 kudou32-04


      三越が京城・大連へと進出した背景には、日露戦争勝利で実質支配した朝鮮半島と中国東北部への権益拡大のため、この地域に多くの官史、軍人、そして商人が大多数押し寄せ、日本人社会が急拡大したからであろう。三越の記録にも「満鉄の理事から、社員諸氏へ日用品を廉価で供給せさしむべく早急なる大連出店要請があり」とある。


      京城三越は何度か移転拡張を繰り返し、1916年10月には三階建て370坪のルネッサンス様式の百貨店となり、1930年(昭和5年)に現在の地下1階地上4階の2300坪の鉄筋コンクリートの大店舗に改築されるに至った(多田工務店施行)。当時30歳前後の祖父と家族が京城に赴任するようになったのは、この大改装のためであろう。


      もっと驚いたのは母の記憶である。京城から引き上げて70年になり、今年で87歳になるが、三越の前に朝鮮銀行(現:韓国銀行)、右前に郵便局(現在も同じ郵便局)、朝鮮銀行の先に朝鮮ホテル(現ウエスチンチョースンホテル)、その先に市役所(現在も同じ)と、見事に今と同じ所在を言い当てられる事である。だれでも子供の時の記憶がそのまま残っているし、女学校時代から慣れ親しんだ街の風景が脳裏にあるようだ。そして日本の古い建物を残して使う韓国政府・国民に感謝したい。蛇足ながら、ソウルで買い物される時は、ロッテホテル南側、明洞西の「新世界百貨店(旧三越百貨店)」をご訪問下さい。


      参考文献:戦前・戦中における百貨店の海外進出(川端基夫)
         蘇州にあった大丸百貨店、大連にあった三越百貨店【蘇州たより Vol.2】


      kudou32-05 kudou32-06


    2015.09.11

    おら、東京に行ったさ!! 【蘇州たより 工藤和直】vol.31 (読む時間:約7分半)


    • 東京は東の都を意味する語である。現在では日本の首都「東京」を指す場合が多いが、他に歴史上「東京」と呼ばれた都市は多く存在するが、「東京」は中原においては「洛陽」または「開封」を指す場合が多い(ただし北方の征服王朝[遼・金]に東京遼陽府がある)。北宋(西暦960~1127年)は、東京開封府、西京河南府(洛陽)、南京応天府(徐州) 北京大名府(濮陽)の4つの都を置く四京制を敷いた。その東京開封府は現在の河南省開封市である。現在でも雅称として開封を「東京」と呼ぶことがある。


      開封の歴史は3500年ほど前、夏王朝第7国王であった予が老丘(今の開封一帯)へ遷都、以後232年間国都として栄えたことから始まる。夏王朝は4000年前、現在の洛陽市の東になる黄河流域(二里頭遺跡)に生まれた中国最古の王朝である。開封の名の由来は紀元前8世紀の春秋時代に遡り、当時この地方を支配していた鄭の荘公が現在の開封の近くに城を築き、そこに啓封と名づけた事から始まる。後に前漢の景帝(劉啓)を避諱して、同義の開の字に改められ「開封」となった。戦国時代は晋から分離した魏の領国であり、紀元前341年大梁と名づけられ首都となった。


      戦国時代の青銅器による貨幣経済は、この魏(大梁)を中心に始まった。鍬の形をした布銭が良く知られているが、その中の平首布は、足部の形から橋足布・鋭角布・尖足布・三孔布などに分類される。大梁橋足布はアーチ型の足が特徴の青銅貨幣であるが、ここ開封で多く埋蔵されている。その後、環銭(円銭)が最初に作られたのも魏国であった。初期には「垣」「共」の地方名を鋳出した貨幣が造られ、その後「釿」などの秤量単位を刻印するようになった。


      紀元前225年、秦の攻撃で大梁は落城し都市も荒廃した。前漢の時代に武帝の弟・梁王・劉武が封じられたこともあったが、後漢から三国時代の魏にかけての時期にはさほど重要視される都市ではなかった。東魏時代には梁州、北周時代には汴州(べんしゅう)と呼ばれた。隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり、南からやってくる物資の大集積地として栄えた。その後の唐末期に首都長安は荒廃し、それに代わってこの都市が全中国の中心地となり、唐から簒奪した朱全忠はここを首都として後梁を建てた。その後の五代政権も後唐を除いて全てこの地を汴京(べんけい)と称して首都とした。


      その後、周より禅譲を受けた趙匡胤は、ここ宋の都を「東京開封府」と称した。これが東京の名前が使われた発端になる。東京開封府は拡張され、三重の城壁が都市を取り囲んだ。大運河の一部も引き込まれ、水運によって米を始めとした大量の物資が江南地方より運び込まれ、開封には国中の物資が集まるようになり、ここにおいて開封は空前の繁栄期を迎えることとなる。江南蘇州からは穀物の他、宋貴族が喜ぶ絹製品や石材(太湖石・武康石)など多くが大運河を通じて東京に運ばれた。蘇州の大発展の裏には、東京と言う大きな市場があったが故だ。


      東京開封府の宮城では、交通の障害となる区画同士の壁は取り払われ、庶民の夜間通行も許可され、空いている土地には必ず屋台が立ち並び大道芸、講談などが行われ、昼夜を問わず飲食店には人々が集い、酒や茶を飲んだ。ここが唐の長安との大きな違いである。その繁栄振りは『東京夢華録』・『清明上河図』に記されている。


      北方の金が開封を占領し南宋と対峙すると、首都の座を失うとともに南北分断によって大運河も荒廃し、3重の城壁のうち外の2つは放棄される。モンゴル帝国により攻められて領土の大半を奪われた金は、この地に遷都して抵抗を続けたが、程なく滅ぼされた。金と元は首都を北京(中都・大都)とし、開封はあくまで河南の一地域となった。


      元が中国を統一すると、杭州と大都を短絡する形で大運河が再建され、南京応天府であった徐州から北に運河が作られた。開封は大運河路から外れた。明代には周王府が置かれ壮麗な建築物があったが、明末の黄河大氾濫により土中に没した。その後、清朝に周王府の跡に龍亭が建てられた。明・清でも変わらず河南省の省都とされたが、中華人民共和国が誕生すると省都の地位を鄭州に奪われた。現在の開封市は観光地として栄えている。現在の都市の下6mには明代の都市が眠っており、その下(地上から10m)には宋代の都市があり、全部で6層が積み重なっているのは、黄河がたびたび氾濫した故である。黄河は、時として開封市の南を流れた時期もあった。


      kudou31-03


      『清明上河図』は清明の時節、東京開封府の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いている。張択端の作品とされ、北宋末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街図や風俗図として、極めて資料的価値も高いものである。明代以降、この画巻の名声を受けて画題や構図などを継承し、同名の画巻が数多く描かれた。大別すると3つの系統に別れ、一つは張択端の真作系統、二つ目は明代の画家仇英が描いたとされる蘇州の風景を描いたもの(徐楊:姑蘇繁華図)、3つ目は乾隆元年(西暦1736年)12月清代の宮廷画家5人が共同制作して乾隆帝に献上した作で、現在台湾の故宮博物院に所蔵されている「清院本」と呼ばれる系統である。


      kudou31-04


      kudou31-05


      【東京開封府の城壁をめぐる】


      北宋時代、東京開封府は三重の城壁に囲まれていた。新城(外城)・旧城(内城)・宮城(大内)である。これが最初の不思議である。三重構造の城郭はそれまで見られないし、その後も見られない(奉天城は三重構造だったが、宮城が確認されてない)。現在一般的見るのが旧城であるが、唐代に作られた。図で見るように宮城は南北がほぼ一直線であるが、旧城や新城(外城)の東西の城壁は東に約10度程度傾いている。旧城は周囲11kmほどであり、台形になっている(南北城壁はほぼ平行)。この傾きが二つ目の不思議である。旧城内になる宮城(大内)は唐の長安を模して作られた事と、南門が朱雀門となっていることから明確に理解できる。日本の平城京・平安京も唐の長安を模して作られている。更にもう一つの不思議が、宮城(周囲2.5km)の前に、御街という幅300mになる大道があったことだ。唐の長安も承天門街と言う街路があるが、東京開封は大道と言うより広場の感が強いことだ。以上の様に、開封の城は三つの不思議からなる。


      宮城には四つの門があった。北の拱辰門、南の宣徳門、東西には東華・西華門である。旧城には12の門があった。東西南北いずれも三つずつであった。北西角から時計回りに見ると、北側には金水門(天浪門)・酸棗門(景龍門)・封邱門(安遠門)、東側が曹門(望春門)・宋門(麗景門)・角子水門、南側が保康門・朱雀門・新門(崇明門)、西側が鄭門(宣秋門)・角子水門・梁門(閭闔門)である。


      新城(外城)は周囲25kmにもなる大城壁であった。五代末から北宋初期は都市空間の成長と、旧城(内城)から政府・軍部施設の拡大や一般庶民の人口増大に対応するため、さらに大きな都市空間を形成させ、それを包括するがために新しい城壁(新城)が形成された。新城が設置される事によって、旧城の城壁は防衛上の役割がなくなり、平素の生活上の治安維持を目的とした城壁となった。


      新城(外城)は金滅亡後には破壊されて、なかなかその位置を明確にするのが難しくなったが、全部で22門(そのうち水門が7つ)あったようだ。同じく東北部の北側から衛州門(安粛門)・新酸棗門(通天門)・新封邱門(景陽門)・陳橋門(永泰門)、東側が東北水門(善利水門)・新曹門(含耀門)・新宋門(朝陽門)・通沢門・東水門・上善門、南側が陳州門(宣化門)・普済水門(蔡河下水門)・南薫門・広利水門(蔡河上水門)・戴楼門(安上門)、西側が新鄭門(順門)・大通門・西水門・宣沢門・万勝門(開遠門)・固子門(金耀門)・西北水門(咸豊水門)である。


      洛陽から流れる大運河は西の西水門から入り、旧城(内城)西の角子水門を通って、宋門南の角子門、そして東南角の東水門に流れ徐州に流れる。この運河を汴河と言った。旧城(内城)の現在の状況は下図に示すが、北宋時代の城壁が残る東西側に一部、土で固くつき固められた跡をわずかに残すだけである。大梁門の城壁に沿って約6m掘り下げると、明代の城壁や馬路が見られる。さらに4mほど掘ると、北宋時代が現れてくる。


      清明上河図の中央に大きな木造の橋「虹橋」が描かれている。この橋はどこなのかが、いつも議論になってきた。ひとつは新城(外城)の南東に虹橋があり、この橋と言われる説、同じく新城の西部にある横橋の説もある。ただ、虹橋の左に城門が画かれ、その城門に城壁がない事から、城門は旧城(内城)の城門を描いていることになる。そう見ると、虹橋は旧城の南東部にある宋門外の上土橋の可能性が一番高い。ただ、いずれの橋も明代の大洪水で地中に埋められ、現在どの地に立ってみても絵のような活気はいっさい見られない。江戸は東京の日本橋、今は高架道路の下にあるが、江戸時代の浮世絵では活気ある場所であった。


      参考文献:宋都開封の旧城と旧城空間について(久保田和男)
           北京の小さい橋(妹尾達彦)


      kudou31-06


    2015.08.31

    吉田茂が駐在した天津日本人租界地跡を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】vol.30 (読む時間:約4分半)


    • 中国国内において西洋列強(日本も含む)が設定した利権のなかに租界地がある。租界とは主権は中国に属しながら、中国側に行政権がない(治外法権)極めて限定された地域を長期的に外国人に貸与された地域のことである。アヘン戦争後の南京条約1842年により西洋列強に、広州・アモイ・福州・寧波・上海5港を開港させ、最初にイギリス、次にフランス、次にアメリカが上海に租界地を置いた。その後天津条約1858年で、漢口・九江・南京など10港を開港、北京条約1860年に天津を開港させた。西洋列強は戦勝国の立場で特権を中国に強いる傾向が強く、あわせて中国内の内乱をもうまく利用し、租界地の拡大を図った。


      日本は日清戦争に勝利し、1985年下関条約によって重慶・蘇州・杭州・沙市の開港と専管租界開設の準備を開始、さらに1896年「日清通商航海条約」で上海・天津・漢口・蘇州・杭州・アモイでの租界開設を認めさせた。しかし、候補地の交渉では清国政府の外交戦術がうまく、条件の悪い墓場とか荒野を割り当てられるケースが多く、当時経済力の乏しい日本は市中心から離れ交通の不便な地域での発展が見込めず、途中断念するケースが多々であった。沙市の場合は中国住民による抗日暴動事件や日本国領事館焼き討ちなどあり、福州・アモイも同じく租界設置には至らなかった。九つの租界地の中で、一定の発展を見たのは上海(共同租界)・天津・漢口ぐらいで、重慶・杭州・蘇州は最大でも100名程度で、福州・アモイ・沙市は設立もなかった。当時の租界歴史を大きくまとめると、1896~1905年の開設期、1937年までの成長期、そして敗戦までの1945年の終焉期と三段階に分けられる。


      天津には1898年から1943年にかけて、日本人租界地が置かれ、最大規模であった(上海は欧米との共同租界地)。明治維新後、天津は中国政府(清国)との外交の入口であった。1871年の日清修交条規締結以後、天津が日中間外交交渉の窓口となり、1874年の台湾出兵に関しても、外務卿副島種臣や全権便利大臣大久保利通が天津にて交渉、翌年の朝鮮問題も全権大使伊藤博文が天津に赴任している。1871年の条規で領事館を置く権利を得て、1873年に上海に最初の領事を設置、1875年に池田寛治が5年間副領事として天津に派遣、1883年には後に平民首相となる「原敬」が領事として赴任した。1896年7月、北京で日清通商航海条約が締結され、1898年8月には天津において約100万m2の租界地を得た。ただし、獲得した土地の南部は大半が沼沢地であり、まずは干拓(埋め立て)が最初の任務であった。


      天津租界地は、まずは海河に近い土地から建設が始まった。日本政府はのちに栄街(新華路)となる北側(旭街;和平路)までを第一期、栄街から春日街(河南路)を第二期とした。日本領事館がある花園街(山東路)から芙蓉街(河北路)付近が政治経済の中心地となった。1903年には、フランスから割譲された予備地を入れて最終的には124万m2となった。西北は福島街(多倫路)、南は住吉街(南京路)、東は秋山街(錦州道)、北は海河にかけての領域である。


      1902年1月、日本政府は天津領事館を総領事館に昇格、第一代総領事には、伊集院彦吉が就任、1909年に栄街に移転。1915年には、宮島街(鞍山道)×花園街(山東路)角に、新領事館を建設した(写真)。1922年には、吉田茂(戦後の総理大臣)が総領事として赴任、3年後には奉天総領事となっている。吉田茂は外務省記録から見ると、多くの報告書を残し、中国専門家としての一輪を見ることができる。その後、イタリア大使・イギリス大使を歴任、1939年に退官してから、戦後は自由党総裁として組閣、5次に渡り首相を務めた。


      1894年日清戦争開始時には天津在留邦人は48名に過ぎなかったが、義和団事件、第一次世界大戦、日中戦争と数度の戦乱の度に邦人は増加、1931年に1万人、その後毎年1万人増加し、1941年には7万人近くになった。日本租界は9カ国の中で一番西北部に位置し、東はフランス租界、北は天津県城(旧城内)、北西部に中国人街三不管(南市スラム街)、南西部に日本軍支那部隊の駐屯する「海口寺」で、現在地下鉄一号線「鞍山道」駅から北西に走る「鞍山道」の左右に格子状に街路が出来た。鞍山道(宮島街)と並行に斜めに走るのが、万全道(伏見街)・四平東道(浪速街)・哈蜜道(松島街)・瀋陽道(蓬莱街)・錦州道(秋山街)である。メインストリートは鞍山道(宮島街)になる。駅を降りまず見えるのが武徳殿(租界地の武道殿)であり、柔剣道などで日本人が心身を鍛えていた。鞍山道を北西に向かうと、甘粛路(淡路街)で旧淡路小学校建屋の遭遇、その周辺には日系企業の社宅や一軒屋など見ることができる。北上するに日本総領事館(1949年折除)や警察署があったのが、河北路(芙蓉街)と山東路(花園街)に挟まれた地域である。日本総領事館(現科技金融大厦)の北、新華路(栄街)との間に、大和公園(現八一礼堂)と天津神社(現天津市豫商会館)があった。その北に路面電車が通っていた和平路(旭街)があった。この路面電車で北の旧天津城内や東の仏国租界・英国租界に移動ができた。現在でも金融関係の建物が多いのが英国租界であり、ファッション店が多いのは仏国租界である。日租界は一般中国人と日本人が住む寂しい環境であったようだ。旭街の北に、曙街(嫩江路)があった(写真)。旧横浜正金銀行(現中国銀行)はフランス租界にあった。天津租界地は天津政府の保護により、昔日の日本人住居跡などその痕跡を確認できるのが特徴だ。


      kudou30-03


      kudou30-04


       下図は、天津租界地にある現在の建物


      kudou30-05


      参考文献:中国における日本租界の歴史(大里浩秋)
           天津の中の日本社会(貴志俊彦)
           天津租界の成り立ち(近藤久義)
      福州にあった日本領事館【蘇州たより Vol.29】
      蘇州にあった日本人租界地を歩く【蘇州たより Vol.24】


    2015.08.13

    福州にあった日本領事館 【蘇州たより 工藤和直】vol.29 (読む時間:約2分)


    • アヘン戦争後の南京条約(西暦1842年)により西洋列強は、広州・アモイ・福州・寧波・上海5港を開港させ、最初にイギリス、次にフランス、次にアメリカが上海に租界地を置いた。その後天津条約(西暦1858年)で、漢口・九江・南京など10港を開港、北京条約(西暦1860年)によって天津を開港させた。西洋列強は戦勝国の立場で特権を中国に強いる傾向が強く、あわせて中国内の内乱をもうまく利用し、租界地の拡大を図った。


      福州市は福建省の省都だが、南京条約で開港場となり、閩河沿いの倉前山一帯にイギリス人が住み着くようになった。1844年にイギリス領事館(現在の楽郡路“紅軍園”)が建設されると、他の列強各国も領事館や商館、学校、教会などを付近に建設、倉前山は外国人の居住区と化していった。この倉前山(現在の煙台山公園)に英・米・フランス・ドイツ・ロシア・日本・イタリア・オランダなど17の領事館が出来た。写真は現在もある各国の領事館跡である。日本領事館は1872年に愛国路南の対湖路2号の丘陵地にできた。アメリカ領事館郵便局宿舎(愛国路2号)そこから見下ろすと、閩河南岸までの日本人租界予定地を手に取るように見える一等地であることが分かる。現在は一般の方の民家として使われている。


      kudou29-03


      福州に住む外国人たちは、1862年に「福州公路信託部」という自治組織を結成し、倉前山で道路や墓地の建設、環境整備を行ったほか、一時は自分たちの警察も設置した。しかし未公認の「租界もどき」なので、住民から税金を徴収するわけにはいかず、インフラ建設の財源は倉前山の道路を通る人から年3元(乗馬する人は6元)、沿道の企業からは年25元を徴収して充てていたようだ。


      1860年代にイギリスの教会が中国人に焼き討ちされる事件が起きると、外国人の怒りを静めるために福州の中国側役人は倉前山の麓に70万坪の敷地を提供し、外国人住民はここに競馬場を開設。当初、中国側に地代として年1000両を払っていたが、外国人たちが福州の中国人将軍を競馬観戦に招いて歓待したところ、ご機嫌になった将軍は地代を免除したうえ、競馬場は「一般中国人立ち入り禁止」の治外法権エリアとすることを認めた。


      kudou29-04


      1897年の条約で、福州に日本租界の設置が認められ、1899年4月28日に規定を定めた。その内容は、天主堂码头から西で、閩河南岸から丘陵地にかけての土地であったが、結局作られずじまいであった。外国人による“共同租界もどき”は太平洋戦争勃発でイギリス人らが引き揚げる1942年まで続いた。同じくアモイ(厦門)の租界地もまた、1900年の調印後実際に租界地は設置されなかった。広州も同じく1902~03年にかけて租界地の交渉は進めたが、それ以上は進展がなかった。


      kudou29-05


      参考:蘇州にあった日本人租界地跡を歩く【蘇州たより Vol.24】


    2015.08.06

    愛と悲しみの蘇州古橋 【蘇州たより 工藤和直】vol.28 (読む時間:約9分)


    • 唐時代、白居易の漢詩には「紅蘭390橋」とあり、宋時代1229年「平江図」には359の橋が刻まれている。そして2013年に筆者が調査するに172橋があり、その内現在も宋代から同じ位置に存在が確認できるのは85橋である。残念ながら、多くは明・清そして中華民国時代に改修が進み、当時とまったく同じとは言えないが、昔日の雄姿をわずかに残している。橋にはそれぞれ意味があるが、その中で愛と悲しみに関係ある蘇州古橋を紹介する。


      蘇州城内は、大きくは三横四直の運河で構成されている。その第一横河の東端、婁門近くに張香橋がある。第一横河は西の閶門から始まる。人民路にかかる香花橋(現在地下鉄工事中)を東に行けば臨頓橋で第三直河に合流、更に東進すると蘇州博物館や拙政園を見ながら第四直河が南下する華陽橋に至る。ここから北街河となり東進すると東北街の婁門バス停の南側にあるのが「張香橋」である。この橋は唐時代(当時は木製)からある橋で、清康煕帝45年(1706年)に重建、1956年に石段式の橋から平橋に改修された。


      kudou28-03


      唐時代、この橋の近くに張という名前の大家があった。そこの娘の名前は“香”と言う。その家には多くの下僕が居たが、その一人と“香”は相愛になったと言う。何時の時代でも貧富の違いは結婚の阻害になるものだが、恋仲のうわさはついに家中に知れるところになり、下僕の男子は家を追い出されることになった。“香”にとっては二人の別れは思いがけない出来事だが、毎日毎日の心労が祟り、ついにはこの橋から身を投げるという悲しい結末になった。近所の者はその後この橋を何時の日か「張香橋」と呼ぶようになった。宋時代になると次のような逸話も語らえるようになった。「月夜の夜になうと、大きなウサギの化身がこの橋の上に現れる。その化身(兎仙)はだれも捕まえることはできない。きっと張香が、橋の上で戻って来ない愛しい人を待っているのだろうと」。今は平橋になっているが、かつては階段式でその一番上で遠くを眺めている兎の化身「張香」は、「只家人橋上等待你回家:あなたの帰りを待っています」と言っているに違いないと思うだけであった。


      平江路にある胡廂使橋は宋代「平江図」にもあり、現在の橋は清乾隆帝9年(1744年)に重建、1983年に一部改装された。宋時代の官職(廂使)から名付けられたが、廂使(Xiang Shi )は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味があるので、七夕の時は橋の上で男女が密会する場所にもなった。今でもこの橋の上で結婚式用の花嫁花婿の写真を撮る光景が多く見られる。(今年の旧暦7月7日は、8月20日(木)になります)


      kudou28-05


      明時代、隣接する胡廂使巷に富商人が住んで居た。そこに毎朝、葑門外から野菜を運ぶ青年が居た。彼は非常に学問好きで、同じく富商人の聡明で美人の娘と恋仲になった。これが父親の知る事になり、野菜を運ぶのは一人の老女に代わった。娘は「終日思君不見君」と恋焦がれた気持ちを残し、庭の井戸に身を投げ短い一生を終えることになった。近隣の方は、いつしか廂使(Xiang Shi )橋と言わず、相手を思う相思(Xiang Si)橋と言うようになった。


      蘇州城の南西角に盤門があるが、その南にある呉門橋については、日中戦争時の辛い歴史があることも忘れてはいけない。呉門橋は宋代元豊7年(西暦1084年)に創建され、当初は「新橋」とか「三条橋」とか呼ばれた。盤門の南に位置し、呉の国に入る入り口となったので「呉門橋」となった。現在は写真の様に単孔橋であるが、当初は3孔橋であった。明・清時代に重建され、同治11年(西暦1872年)に単孔橋となり現在に至っている。盤門路に入るにはこの橋を通るしかない。かの文豪谷崎潤一郎も蘇州訪問時は盤門南の日本人租界地で宿をとり、翌日ロバで城内に入ったと日記にある。


      kudou28-04


      国立北京女子高等師範大学の学長であった「楊蔭楡」は蘇州人であるが、日本の青山女子学院に留学、帰国後アメリカコロンビア大学へも留学した才女でもあった。魯迅との論争に破れ故郷蘇州で学校設立、その跡は城内東北部の藕園内に残る。折しも日中戦争の折、南京を陥落させ蘇州に手を伸ばした日本軍は、彼女の住む新橋巷(盤門の北)で婦女子に対する暴行を行う。楊女子は巧みな日本語で抗議を行うが認められず、呉門橋に逃れた途中で機銃掃射により落命、呉門橋は多くの中国人の死骸と血で赤く染まったと記録されている。良妻賢母を基本とする保守的な思想家ではあったが、中国初めての女性国立大学長であった功績は大きい。


      橋ではないが、同じような女性の悲しみが聞こえるのが、蘇州城東北門になる「斉門」である。斉門は呉王闔閭(前 514年~496年在位)が最初に作った水陸8門の一つである。闔閭は北国の斉との戦いで勝利を治め、斉景公の王女を闔閭の長男「波:終累」(夫差の兄)と結婚させた。王女は半ば人質同然の待遇であった。しかも幸せは長くは続かなかった。突然、終累は若くして死んでしまい、その庇護の後ろ盾が無くなり、王女は毎日故郷を思い悲しみで泣くだけであった。それを見た闔閭は、現在の位置に九層の高楼を建て少しでも故郷が見えるようにと計らった。王女は毎日その高楼に登り、斉の国を思い泣いて暮らしたという。それでこの門の事を「望斉門」とも言うようになった。現在、その高楼はない。


    2015.07.27

    蘇州城内、古橋案内(その2) 【蘇州たより 工藤和直】vol.27 (読む時間:約9分)


    • 第一直河、北は皋(Gao)橋から始まると記載されているが、運河はその北の桃花橋からある。皋橋から南へ、唐時代から呉趨坊と言う街路がある。それに接する天庫前を100mほど西に行くと周王廟跡に着く。第一直河に戻ると平安橋(市民の希望で付けられた花崗岩平橋)、敦化橋(1927年市民重建平橋)、第二横河(干将河)南の乗騮橋(清同治13年:1874年平橋、黒毛赤馬に乗る)、第三横河南でちょうど胥門とつながる来遠橋(民国12年改建花崗岩アーチ式、論語の朋遠方入り来るに所以)があり、その後南下して盤門から城外に出て行く。盤門景区内に窺塔橋がある。唐時代は廟橋と言われ近くに五相公廟(伍子胥廟)がある。1953年に改築されたが、橋桁は往時のままである。ここからの瑞光塔の眺めは最高である。


      第二直河は蘇州駅前の平門から始まり、北過軍橋・南過軍橋のあとは、埋め立てられ存在しないが、その痕跡は王天井巷に残っている。河は公園や店になっているが、東西には道を擁し、中央に河があったことが容易に推測できる。途中には天井小分などの牌門跡や範仲庵(宋時代の政治家)の私邸:範義荘が景範中学校内にある。またこの周辺から南は宋時代、呉県が置かれた(東は長州県)場所であり、兪越故士宅などが並ぶ。人民路(臥龍街)に接する当たりに平江図東呉県橋があった。干将河を横切ると東美巷・西美巷と両側に河の痕跡を見ながら、大石頭巷には3つの井戸が現存する。更に南下するに右に人民政府会議センターが見るが、左が蘇州市民病院となり、第三横河に至りようやく志成橋(平橋)となる。その南は金獅河沿になるが、同じく埋め立てられている。志成橋は民国時代1917年創建で「衆志成城」の意味がある。


      kudou27-03 kudou27-04


      第三直河は北の斉門から始まる。南下するに臨頓橋で第一横河と交わり、臨頓河として南下する。すぐに任蒋橋になり、左折すれば潘儒巷となる。白塔子橋を越え南向するに西花橋に至るが、唐時代は花橋と言われ、白居易の詩「揚州駅里夢蘇州、夢至花橋水閣頭」にある。その南懸橋を左折して平江路に行くと清代状元であった洪釣の故居がある懸橋巷となる。この巷には1988年に亡くなった現代中国の出版・教育者でもある葉聖陶先生も輩出している。貧しい家庭で育つが、その功績は大きい。その南が現在の観前街の入り口の酢坊橋であり、北に徐貴子橋(平江図では徐鬼橋)、更に南下して碧風坊橋・落瓜橋となる。落下した瓜(スイカ)の話が言い伝えとなっているのが落瓜橋である。北宋大臣、呂豪正(西暦943~1011年)河南洛陽人は青年時代非常に貧しい生活をしていた。ここ蘇州に流れ着いてこの橋の袂で生活を始めた。ある時一人の農夫が西瓜を積んだ荷馬車でこの橋を渡ろうとした難儀を見て手伝った。そして褒賞として頂いた西瓜であったが、生活苦で持つ力なく、頂いた西瓜はあっけなく水上に落下した。その後呂青年は進士となり、時の宋皇帝に重用され、懐かしい蘇州を視察、まさに青年時代の困窮を味わったこの橋を見て、渡り易く橋を自費で改修したと言う。西瓜を落とした橋と言う事で、落瓜橋と名付けられた。


      その南に、青龍橋、大郎橋(又の名を太郎、宋代建1982年修建平橋)となる。太郎がおればどこかに二郎となるが、葑門から入って左折すれば二郎巷となる。第四直河は別名平江河と呼ばれ非常に原型を留める地域である。歴史的にそのままを残しているので、是非一度は訪問される事を希望する。橋には説明碑があり、宋時代の武康石や明・新時代の青石などの石造りを確認できる。華陽橋から約2km弱の距離だが、多くの古橋を見ることができる。


      その平江路は第二横河(干将河)の苑橋で終わるが、華陽橋との間には15座の古橋があり、一つ一つに故事を持つ。南宋時代の「平江図」にも同じ場所と断定できる橋が12座であることから、蘇州城内で古橋を1日で見たいなら是非とも平江路を推薦したい。宋時代から現存する12座の橋は、北から渓・慶林(平江図では慶暦)・保吉利(打急路)・胡廂使・唐・通利・朱馬交・衆安・青石(蘇軍)・勝利(慶織)・雪糕・寿安(寺後)・思婆(寺東)である。いずれも明・清時代に何度かの重建を行い、一部分に宋時代の武康石などが残っているが、基本構想は800年変わってないのが特徴である。青石橋は、高価な青石が全面に使われており必見の価値がある。胡廂使橋は宋時代の官職(廂使)から名付けられたが、廂使(Xiang Shi)は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味で、七夕の時は橋の上で男女が密会する場所にもなった。今でもこの橋の上で結婚式用の花嫁花婿の写真を撮る光景が見られる。思婆(平江図では寺東)橋は尼僧院の東にあった古橋で、尼僧の事を師(Shi)婆と呼んだが、蘇州語の曖昧な発音から思(Si)となったものだ。この通りは思婆巷と言うが、ここに住んだのが近代中国史上有名な賽金花(本名:趙彩雲)女史である。清朝末期に蘇州の官僚洪鈞(進士)の側室となったが、洪鈞と赴任したドイツで語学を習得、義和団事件では8カ国連合軍を率いたドイツの将軍を説き伏せ、市民との衝突を回避させた。また1930年代には日帝の進出に対しても同様に愛国的な行動をした女性である。


      平江河が苑橋で終われば、干将河を越えた興市橋からその南下が始まり、葑門で終わる6つの橋は蘇州1級である。蘇州城内は水上輸送から陸上自動車輸送に時代が変革する中で、1980年代に入り、多くの橋はその役目を終え、破壊か平橋への改築が主になった。この望星橋巷・忠信橋巷は幸い市の南東の交通不便のままで生活が存続できたが為に、不幸中の幸いで折橋・アーチ橋がそのまま残ったと推定される。その勇士は今後とも蘇州市の財産として永久に残らん事を切に希望する。官太尉橋(宋代創建、清代数度重建、呉郡志によると官と言う太尉が住んだ)、呉王橋(呉夫差時代創建、往時は東西に両方支流があり、西:胭脂、東:仙境、呉王夫差は西施と西の錦帆渓から船に乗り、この橋で降りたので呉王橋と言われた)、寿星橋(宋創建、営橋。付近に陶器の寿命像が出た由来、その南の百獅子橋の遺功を移す、武康石)、望星橋(南宋紹定2年創建、往時から多くの外来船が寄航、手紙を望んだと言う由来で望信橋と言われたが民国時代に現在名)、忠信橋(清代創建花崗岩折橋)がある。以上が蘇州城内で是非とも訪れたい古橋である。


      蘇州にある橋は宋代から石橋に架け替えられたが、宋代のままにある橋はない。明・清時代に重修されたものがせいぜい当時の往時をしのばせるにすぎない。郊外に行くと宋代のままがいくつか残っている(国家一級で文化財として登録)。そのいくつかを紹介したい。一つは同里にある思本橋である。同里はその昔は「富士」と言われ40座の橋が記録される。呉江から同里へ行く際、通るのが迎燕路であるが、その南に思本路がありその西端の工場地帯の汚くなったクリークの突然出くわすのが、「思本橋」である。南宋宝祐年間(1253~1258年)の5年の歳月でできた760年前の雄姿を見る事ができるアーチ橋である。横から見るに橋上部の梁部に彩雲の模様がうっすらと残っている。もうひとつが、呉江七都にある「東廟橋」(平橋)である。230号線から呉越路に南下した東廟橋村にあり、橋梁は武康石からなる。欄干は花崗岩が追加されている。宋紹定年間(1228~1233年)に建設、同里の思本橋に先立つ25年前の橋である。この二つを見ないと蘇州の古橋を語る資格がない。七都付近には八都もあり、調査するに909年には、1から29都まであったようだ。これらの橋の共通点は何でこんな田舎と思う点である。それが故に時代から取り残され現在まで残ったと言える。これらの橋の周囲に明・清時代の古橋も見られるが、共通して今でも生活のために使われている点がすばらしい。二つの橋はふんだんに武康石が使われ、800年の歴史の中で最高の「紫色」を呈している。まさに国宝級であろう。蘇州市南部の呉江地方には260余の古橋が記録されている。


      kudou27-05-2 kudou27-06-2


      同里までの時間がない方々にとって明清時代に改築されたが、宋元時代の面影を持ちのが、城内東南角にある滅渡橋と寒山寺内にある楓橋(封橋)が挙げられる。楓橋は古来水上交通の関所(鉄嶺関)たるべき重要な橋であったがため太平天国の乱で1860年破壊され再建された花崗岩単孔アーチ式である。また寒山寺門前にあるのが江村橋であるが同じく唐時代に創建され、現在は花崗岩単孔アーチ型である。


      kudou27-07


      滅渡橋は蘇州城東南角にある楼閣(2000年代建設)の対面にある橋で、花崗岩からなる単孔アーチ式である。その南2kmに宝帯橋がある。更にもう一つ挙げるとすると盤門南の呉門橋である。宋代1084年創建の三孔アーチ式で、盤門路に入るにはこの橋を通るしかない。かの文豪谷崎潤一郎も蘇州訪問時は盤門南の日本人租界地で宿をとり、翌日ロバで城内に入ったと日記にある。以上の4つは蘇州に来ればすぐ見られる橋であるので必見を薦めたい。


      kudou27-08-2 kudou27-09-2


      よく万年橋(姑胥橋の南)について問われる事が多いが、今の万年橋は2010年頃に三孔アーチ式に建て替えられた橋であり、清代乾隆帝時代1740年に創建、当時の姑蘇繁栄図からみても三孔折橋であり現在のアーチ式と異なる様式に変更された。これも観光船を通すためで歴史の歪曲の例であるので、お薦めはしない。あわせて言えば、姑胥橋北には2500年前の土塁の城壁跡があり、黒く固い土塁にその後の石や煉瓦にない時代を感じさせる価値ある土塁溝が存在したが、2013年の工事できれいな観光受けする石の城壁になった。歴史とは過去の遺物をいかに史実のように残すかであり、観光(お金)のためだけではない。


      滅渡橋から真南に3km下ったところにあるのが宝帯橋である。この橋は元々の目的が道と道をつなぐ2次空間の接合でなく、船を縄で引く労働のために作った橋であるのが特長である。杭州から嘉興・呉江と北上した大運河は蘇州城東南部3kmの所で、右折すれば上海、左折すれば大運河で蘇州城外寒山寺を通り無錫へ、直進すれば3kmで滅渡橋から蘇州城内に入る事ができる交通の要所にある。別名長橋と言われるように317m長さで53のアーチ式であるが、上部は平坦である。創建は唐代(西暦816年)蘇州刺史の王仲舒が宝の帯を売って作ったといわれる。現代の橋は明代(西暦1442年)に再建されたものである。中国に現存する一番長い古橋である。杭州から来た船をただひたすら北に縄で引っ張る労働者の姿をかの日本からの遣唐使一行も見たであろうと思う。現代では日中戦争で日本陸軍の空爆で、南6孔が破壊された。この宝帯橋の大運河に沿った西部に行くと、西塘河が北上するが、そこにあるのが五龍橋(5孔アーチ式)であり、宋時代の趣がある。


      kudou27-10-2 kudou27-11-2


      参考文献:蘇州古橋文化(古呉軒出版社)
           蘇州古石橋(東南大学出版社)
           蘇郡城河三横四直図説(嘉慶二年:1797年)
           姑蘇城図(清乾隆十年:1745年古城図)


      地図をクリックすると大きな図がご覧いただけます

      地図をクリックすると大きな図がご覧いただけます


    2015.07.16

    蘇州城内、古橋案内(その1) 【蘇州たより 工藤和直】vol.26 (読む時間:約8分)


    • 唐代の詩人白居易(西暦772~846年)は「遠近高低寺間出、東西南北橋相望」「緑浪東西南北水、紅欄三百九十橋」と詠い、劉馬蹄も「春城三宮七十橋、爽岸朱楼來柳茶」と詠むように、蘇州は橋が多いことで知られる。宋代に石碑刻された「平江図」には三百五十九橋が描かれている。杜荀鶴(846~904)は、送人遊呉(人の呉に遊ぶを送る)の中で蘇州の街の情景を下記のように詠っている。


      君至姑蘇見  君、姑蘇(蘇州)に至りて見れば
      人家尽枕河  人家尽く河を枕とする
      古宮閑地少  古宮に閑地少なく
      水巷小橋多  水巷小橋多し
      夜市売菱藕  夜市、菱と藕(蓮根)を売り
      春船載綺羅  春船綺羅を載せる


      蘇州の橋は宋の時代に石橋となった。唐の時代は木造であったことが白居易の漢詩「紅欄三百九十橋」から伺える。木は赤く塗られていた。唐の時代390座あったが、北宋時代から石つくりへと大改修が始まり、至和2年(1055年)には52座が修理、中呉記聞には360座となり南宋紹定2年(1229年)平江図によると359座となっている。その後明代には311、清代には510、民国時代には349座が記録されている。そして現在地下鉄工事で、破壊され消滅した橋も多くあるが、アパート間の移動、銀行への通路として新規の橋もでき、その結果2013年末段階で172座があると、筆者の脚で踏破し出した結論である。


      6~7千年前、現在の呉江梅堰龍南当たりの川沿いに原始部落が有り、川沿いに建てられた村間と村間の間に木板を敷いたことで、簡易な橋ができた。これが蘇州で一番初期の橋と認定されている。春秋後期(前512)蘇州城は周囲48里、陸門8・水門8があり、城内には臨頓橋・烏鵲橋・帯城橋・苑橋・憩橋が記録され、その後秦代には昇平橋・織里橋・乗魚橋・剪金橋・呉王橋、漢代には皋(Gao)橋・顧家橋、三国呉時代には楽橋(市の中心)が記録されている。橋の大きさで言えば、蘇州城外ではあるが隋代趙州橋(安済橋)橋長50.82m、宋代1047年創建の呉江「垂虹橋」は1325年には全長450mに渡る江淅古代最長の石橋であったことが記録されている。残念ながら、現在は3つに分断し、最長40~50mとなっている。呉中区に317mの宝帯橋があるが、現存では中国最長である。ちなみに、蘇州内で一番短い橋は、網師園の引静橋(三歩橋)である。


      kudou26-03 kudou26-04


      蘇州城内の水の流れは西の閶門、北の平・斉門から入り、城内を西そして南に緩やかに流れ、東の婁門・葑門および南の盤門に向けて流れ城外に出る構造になっている。では、蘇州城内一度は見ておくべき必見の橋を三横四直の運河にあわせ記載する。


      kudou26-05


      第一横河は、城北西閶門の水関橋を東行して至徳(泰伯廟)橋:民国13年重修後現在改修、皋(Gao)橋で一直河にぶつかるが、皋橋周辺の建物に日本風石作り建築が見られる。皋橋の北に張広橋と言う市場の荷で汚い橋として見えないが、この周辺は千年変わらず生活にマッチした市場の舞台であったと想像できる。崇真宮橋(平江図:宮橋)1982年重建の平橋だが歴史を感じる。水関橋から北行して尚義橋(花崗岩平橋1747年改修)、板橋(花崗岩折橋)と東行し、第二直河日輝橋(平江図では北過軍橋:花崗岩平橋1987年重修)、そこから北行すれば平門に至る。単家橋を東行すれば、地下鉄工事で破壊された香花橋の痕跡に遭遇するが、工事終了後の往古の橋に期待したいが無理であろう。香花橋は人民路を渡る当時のメイン橋(その南の楽橋も)で、人の交通量の多い橋であったがため公開刑場ともなった記録がある。その後北塔寺を見ながら東行、この第一横河は桃塢河と呼ばれる。臨頓橋で第三直河(臨頓河)に合流、北行すれば斉門に至り、東行すれば拙政園と見ながら華陽橋を通過、婁門に至るが、その直前婁門バス停の南にある城東橋と西の張香橋(昔姓は張名は香という少女との月夜の物語が宋代に記録される)は必見に値する。この張香橋の南に徐鯉魚橋(平江図:麒麟橋)1944年顧・兪両氏が重修、百の鯉が来た由来あり。拙政園の前に拙政園橋(園林橋)がある。そこから東方向に見えるのが周通橋である。平江図にも記載があり清時代・民国時代に重建された。ただ今は駐車場内からしか見物できない。橋はゴミ箱のような状況にある。拙政園は明時代、近くの忠王府(太平天国時に置かれた)は清時代、文化財としての価値は、周通橋の方が上である。


      kudou26-06 kudou26-07


      第二横河は干将河といわれ、現在地下鉄一号線の上にあり、西は渡子橋とその北の昇平橋から東に流れるが、昇平橋の北西から城外への支流もある。渡子橋の東にかつて状元橋があったが地下鉄工事でなくなった。渡子橋は第一直河と重なるが、その第一直河と並行して「学士街」が南北に走る。そこに明代大学士「王鏊:1450-1524)」が住んで居た。科挙制度は中国人材登用試験で、殿試の前に会試があり、その前に郷試がある。各試験でトップの者を郷試では解元、会試では会元、そして殿試では状元と呼んだ。この3つをもトップ合格した者は三元と呼ばれる。王鏊は審査官の妬みにより殿試で第3位の「探花」となったが、実力三元と言われた極めて博学な人物であった。


      kudou26-08


      かつて干将河には17座があったと記録されたが、現在は19座となっている。歴史のある河ではあるが、今は市内のメイン道路となり橋はいずれも新しい。東行するに蘇州城内一番の繁華街であった楽橋に至る。現在地下鉄1号線工事で大きく変化し、橋の下を道が走りその下に地下鉄がある。かつて呉の時代から存在した歴史ある橋である。1950年代写真は人民路を北に見たもの、鶏が二羽の風情が実に面白い。またここは北の香花橋と同じく公開処刑場でもあった。処刑所の下を走る地下鉄と言う組みである。この楽橋の東に言橋があるが、ここは平江府の南門の延長にあり、その北が宮巷になる重要な橋となる。言(Yan)橋:平江図では閻(Yan)橋、清代に改名、近くに孔子の弟子言子の廟があった。春秋時代に創建1954年に改建。更に東行するに第3直行と交わる馬津橋、そして呉の夫差の離宮あった苑橋で第4直行と交わる。干将河であえて昔日を思い出させるのは昇龍橋(平江図:万寿寺東橋)1981年重建花崗岩アーチ橋程度であろう。宋代創建、禅寺の万寿寺東橋と呼ばれ明代に現名となる。


      第三横河は姑胥橋を渡った歌薫橋から始まる。その南の第一直河にかかる孫老橋(宋代の蘇州太守孫氏が作り、白居易が唐時代に改修)がある。東行するに第二直河と合流する志成橋も重建されたが昔日を感じる橋である。東行するに現在の人民路(かつては臥龍街)とぶつかる所が飲馬橋(引馬橋)である。写真は民国時代のものであるが、その大きさから城内屈指の橋であったことがわかる。晋時代に高僧が馬にこの橋の下で水の飲ませた由来、橋の南西部に関帝廟があった。その東に今は現存しない夏候橋があったが、その北は、錦帆路となっている。かつて子城の西堀になった渓があった。呉王夫差は西施とここから船にのり、東の呉王橋で降りた記録がある。


      kudou26-09


      第三横河は更に東行するがその道は既に十梓街となっているため、第四直河にぶつかる望星橋まで橋は存在しない。夏候橋(存在しない)から南下した支流は、帝賜蓮橋(アーチ式1984改築、元末期の明に対抗した張士誠が母のために作る)や福民橋(平橋)が長洲路に面してある。東行するに烏鵲橋、船場橋(北は現在も南林飯店であるが当時は造船所であった)、南林橋(その南が南園ホテル)に至る。第三横河に並行して網師園という南宋時代の庭園があり、こじんまりして留園と同じく当時の庭園&建築物を一望に見ることができる。


      現在第10中学の前進が清時代の織造署であったが、その前にあったのが織造橋(紅板橋:木製)である。清時代、乾隆帝が巡行した折、訪問した場所でもある。その東の大通りに掛かる帯城(Dai Cheng)橋は春秋時代からの橋である。子城の南部に位置し、呉が越に負けた時、西施が袋に入れられてこの川に投げ込まれた。その時、袋(Dai)が沈(Chen)と言う韻から命名。その後東行して星造橋(アーチ式花崗岩1984年修理、隕石で作ったとも言われる)、東呉賓館前の呉衛橋などある。星造橋の北に迎楓橋巷がある。迎楓橋は第四直河の望星橋近くにあった。呉衛橋を越えると百歩橋(平江図では磚橋:レンガ)があるが、その北に望門橋(蘇州大学の南門)があり、距離にして50m、歩いて百歩であるのでこの名で呼ばれている。この50m長の街路東に古い住居があるが、蘇州大学教授の方々の住居であった。


      十全街はプラタナス(法国梧桐)が実に美しく植えられた街路であるが、東呉賓館前の梓樹は必見の価値がある。平江図に描かれた樹木も梓樹(きささげ)であると推定する。烏鵲橋は第三横河で最大の橋である。その在りし日の写真から、規模といい重要な橋であることが明確である。呉王夫差の時代には烏鵲館が近隣にあり、その北は呉王時代の子城、宋時代の平江府の南門延長になり、南行するに城門(蛇門)にあたる、蛇門はその所在が明らかでないと言われるが、蘇州城のちょうど南の位置(平城京羅城門にあたる)で、ちょっと前まで杭州に行く観光船の発着場あたりが蛇門と断定する(民国時代に蛇門路の記載があるが、この位置は呉王夫差時代の蛇門の東50mの位置である)。烏鵲橋がどれだけの橋であったか、今では知ることもできないが、白居易の漢詩に、ひとつは「烏鵲橋は紅く夕日を帯びる」と言う夕方の詩であり、もうひとつは「烏鵲橋の端の氷がまだ消えず」と言う冬の詩に書かれた橋であった。


      kudou26-10


      参考文献:蘇州古橋文化(古呉軒出版社)
           蘇郡城河三横四直図説(嘉慶二年:1797年)


    2015.07.07
    1 2 3 4 5 6
    コラム一覧
    全てを見る