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外灘に残る日本国総領事館と芥川龍之介との出会い 【蘇州たより 工藤和直】Vol.44 (読む時間:約4分半)

    • 上海にあった日本国領事館は執筆しないのですか、黄浦飯店が日本領事館跡なのですねと上海駐在の方々から質問がある。上海にあった日本租界地(正確には欧米各国を含めた共同租界地)については、多くの資料があるのでご参考頂きたい。最近、再開発という名目で昔の租界地の面影がなくなり、高層建築群の中に古い日本家屋や赤レンガ、そして日本人学校が徐々に消え行く状況だ。上海には5万人近い日本人が駐在し、多くの日本人観光客が訪問する。外灘の北に戦前10万人の日本人が住み、そこに古き良き日本が残っていた事を記録として残したいと考えた。
      上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦争のあと1842年の南京条約によって当時漁村に過ぎなかった上海港を欧米列国に開港したことから始まる。もちろん春秋戦国時代からの歴史もあるが、この2400万人が住む大都会が誕生するきっかけは1842年であり、まだ170年の歴史しかない(
      蘇州たよりVol.3)。


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      1930年代の上海が地図1である。中央部東西に共同租界、その南にフランス租界、北側の閘北や南側の城内、南市は中国側の上海市。「日本租界」というのは存在せず、共同租界の虹口地区(日本郵船埠頭のあたり)から閘北の新公園にかけて日本人住民の多かった地区を、勝手にそう呼んだ。地図中央に上海競馬場があるが、これは現在人民広場になっている(下写真)。当時の上海の玄関口は1987年まであった上海北駅で、現在の上海駅の東にあった。今の地下鉄3号線沿いである。1909年に上海駅として開業、1916年に上海北駅と改名、駅舎は4階建て洋風建築であったが、1937年日中戦争時に日本軍により空爆され、その後1950年に再建、現在は鉄路博物館となっている。現在の上海駅は当時の操車場跡地であった。


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      黄浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風建築物が英国領事館跡:写真1)を過ぎると交差点がある。正面右がチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級マンションだったブロードウエイマンション(現上海大厦)である。この黄浦路を右に行くとすぐにロシア領事館があり、80年前はソ連領事館である。その横にドイツ領事館があったが今は広場になっている。その横が米国領事館(現海鴎飯店)で、その東横に赤レンガの日本国総領事館(紅楼)が現存する。現在は海軍関係の施設になって内部には入れないが、その北が日本総領事館新館(灰楼)であり、連合国救済総署として使われ、現在もホテルとして利用(現在外国人は宿泊不可)できる黄浦飯店(黄浦路106号)となった(写真2)。正式な日本国総領事館跡は黄浦飯店の奥にある赤レンガ建屋である(黄浦路15号)。


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      写真3は、総領事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口码头)である。奥に見えるのが日本国総領事館で、左上が絵葉書に残る当時の姿である。明治初年、外務省上海出張所が1873年正式に日本領事館と改称、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領事館に昇格。現存建築は1911年竣工の二代目で、平野勇造設計の3階建煉瓦造。優美な曲線を描くマンサード屋根は黄浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また虹口码头は、かの毛沢東がフランスに行く時に利用した埠頭でもある。この日本郵船埠頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に300mほど行くと萬歳館などの旅館街が待っていた。多くの日本人は現在のハイアットホテルから閔行路を通り、大きな夢を持って日本人租界地に向かった。


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      萬歳館(閔行路181号)は1904年創業の旅館、芥川龍之介や佐藤春夫も泊まった当時著名な日本旅館であった。付近の日本旅館としては、豊陽館、東和洋行、常磐館などが一流どころだ。写真4は当時の萬歳館(旧館)であり、写真5が現在の姿である。写真6は閔行路対面の新館入り口付近である。周辺の再開発が進み、次に来るときは新しいビルになっているかもしれない。この旧館3階に芥川龍之介が逗留したのだ。芥川に会いに3階に上ったが、昔のホテルの各部屋は分譲アパートになっており、彼がどこに居たか分からない。ただ、暗い通路や階段に細かい細工を施した手すりや欄間などがあり、かつて芥川が居た痕跡は見られた(蘇州たよりVol.4)。


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      魯迅公園の南門を東西に四川北路が走る。この道路はしばらく東に行くと二股に分かれ右に曲がり南進するが、この東側に上海神社があった。北は華夏銀行から南は天興百貨にかけて南北にひょろ長くあり、1933年(昭和8年)11月1日に設立された。写真7は現在の天興百貨であるが、この付近に上海神社があった。写真8は当時の鳥居と藤井資也氏所蔵の本殿前での家族集合写真9である。ごく普通の日本の風景が、ここ上海にもあったのだ。


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      四川北路を南進すると、上海第一人民病院が東側にあるが、ここは1924年に日本人が開業した総合病院「福民病院」であり(写真10)、魯迅が通訳していたという。その福民病院を過ぎて商店街の間に正門があるのが、高等尋常小学校(北部小学校)である(四川北路1838号、虹口区教育学院実験校)。日本国内ではまだ木造校舎が一般的であった時代、ドイツ人設計による鉄筋4階建て校舎を1917年に建てた。守衛に許可を得て校庭に入れてもらい、100年前に建てられた建物を拝見(写真11)。ちなみに筆者が1959年に入学した宮崎県高鍋町立高鍋東小学校(蘇州たよりVol.12)は木造平屋建であった。1934年に母が入学したソウル市(京城府)東大門小学校は鉄筋で水洗トイレであったという。海外にあった日本人学校は極めて最新なコンクリート造りが多かった。


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      参考文献:エキスブロア上海「上海の旧租界地・歴史関連特集」
      木之内誠「上海歴史ガイドマップ」


    2016.01.18

    奉天(瀋陽市)の街並み変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.43 (読む時間:約3分半)

  • 2016.01.04

    新京(長春市)の街並み変遷 【蘇州たより 工藤和直】Vol.42 (読む時間:約1分半)

  • 2015.12.22

    浦江飯店(ASTOR HOTEL) 【上海の街角で 井上邦久】vol14 (読む時間:約4分半)


    • 外灘からガーデンブリッジを渡ってすぐの交差点角、向かいはロシア領事館、道路を挟んで上海大廈という場所に、浦江飯店(ASTOR HOTEL)、そしてレストラン「上海早震(SHANGHAI MORNING)」が古風な存在感を醸し出しています。 2009年に着任して間もない頃から、このホテルとレストランを利用させて貰っています。 上海で最初に作られた西洋式ホテルの浦江飯店や「上海早震」の沿革や愉しみ方については改めて綴らせて頂きます。 ここでは、かつてこのホテルに逗宿した有名人たち(チャップリン、アインシュタイン、蒋介石夫妻、周恩来などなど)を記念する写真やプレートが、ホテルやレストランの所々に、やや控えめに掛けられていることを伝えるに留めます。


      先月の初めに浦江飯店に泊まった時、部屋のすぐ近くの303号室にはエドガー・スノーが宿泊したという小さなプレートがありました。ちょうど読み続けていた『真夜中の北京(MIDNIGHT IN PEKING)』の中に、エドガー・スノー夫妻についての写真や記述があり、1930年代の空間に引き寄せられたせいか、その夜はページが進みました。


      1937年1月、北京公使館区域近くで起きた元英国領事の養女殺人事件という悲劇。
      著者のポール・フレンチが7年の歳月をかけ、長く迷宮入りしていた猟奇的事件について、中国・英国の歴史的文書を調査し、オーラル・ヒストリー手法も用いて解明していく過程を綴った物語です。笹山裕子の翻訳により『真夜中の北京』という邦題で、7月30日に河出書房新社から発売され、直ぐに売り切れ状態になったようです。
      ポール・フレンチは上海在住の中国近現代史の専門家。エコノミスト・アナリストとして、主に中国経済に関する記事を世界の専門誌に多数寄稿していると紹介されています。


      北京公使館区域とは、北を東長安街、東を崇文門大街、西を公安街で仕切られ、南は城壁で囲まれたリゲーション・クォーター(LEGATION  QUARTER)のことです。城壁のすぐ南沿いに北京中央駅からの鉄道が平行して走っていました。
      1900年の義和団事件以降、強化された防御壁に囲まれた区域内には、英米日露仏伊の大使館や各国軍隊の兵営、横浜正金銀行そして聖ミカエル・カトリック教会等があり、欧州以上に欧州的な文化や習慣が維持されていたと云い、名残の建物が今も残っています。


      1934年発行の「最新北平全市詳図」と1938年発行の「最新北京市街地図」の復刻版を王府井書店で買い、本と読み合わせて歩きました。国民政府が南京を首都に定め、北京は北平に変わり、1937年7月の盧溝橋事件以降の占領により北平は北京と再改変されました。
      1938年の「最新北京市街地図」には、このエリアは「各国大使館」と記載されています。
      1937年初頭に日本軍は紫禁城から数キロメートルの場所に根拠地を作って圧力を加え続け、一方では満州からのアヘンや大麻が北京に持ち込まれ、リゲーション・クォーターの目と鼻の先(崇文門大街と東側の韃靼城壁の間)のアヘン窟や売春宿が密集して、バッド・ランズと呼ばれた地域で取引された、と同書に書かれています。


      北京における植民地主義文化の終焉を目前にして、日本による占領そして傀儡政権の擁立といった流れに呑みこまれようとする空気の中、1937年1月に殺人事件が発生しています。被害者の少女はフランス大使館近くでアイススケートに興じたあと、何者かに拉致されてバッド・ランズで強殺され、韃靼城壁の狐狸塔の下で無残な状態で発見されています。
       英国天津租界の警察や中国の警察の捜査では解明できない(敢えて解明しない?)逆境の中、元領事の父親の執念ともいうべき追及が始まり、物語は動き始めます。


      延安根拠地に赴き、毛沢東を『中国の赤い星』として海外に伝えたエドガー・スノーは中国共産党にとって得難い理解者として高く評価された時代がありました。後年、老境に達した毛沢東の心境を知りえた稀有な米国人という賞賛もありました。そんな従来のイメージは、この本に掲載された若いスノー夫妻の写真や次のような記述で揺らぎます。
      ・・・急進派のジャーナリストで作家のエドガー・スノーと、同じく有名なジャーナリストでもある情熱的で魅力的な妻、ヘレン・フォスター・スノー。スノー夫妻は北京の外国人の間ではよく名が知られており、二人を好きな人と嫌いな人は、はっきり分かれていた。特にエドガーの政治思想は、体制派には忌み嫌われていた。口では革命を説きながら、強いアメリカドルのおかげで街から四マイル離れた競馬場に競走馬を所有するなど、贅沢三昧の暮らしをしているうわべだけの左翼と軽蔑する人もいた。・・・
      妻のヘレン(別名ニム・ウェールズ)は事件について、夫の共産党寄りの言動に警告を発し、出版間近と言われていた『中国の赤い星』を封じるために、国民党特務の藍衣社首領である戴笠の手がヘレンに及んでいた、しかし何かの識別違いで元領事養女が身代わりに殺害された、と思い込みをしていたという一節もあります。


      この同じ時期に、現場のすぐ北側の東観音寺胡同に長年住んでいた兆民の子、中江丑吉がこの事件について何か書き残していないか?急いで調べましたが、『北京の中江丑吉』にはエドガー・スノーが中国人作家の短編集を編集したという記載はあっても、事件についての記述はありません。新聞熟読を日課にしていた中江丑吉ですから大量に流された記事を眼にしていないとは思われず、書簡集を再読すればコメントが出てくるかもしれません。 また丑吉は午後の散歩を日課にしており、韃靼城壁でも散歩をしていたことを読んだ記憶があります。


      1930年後半からの正に真夜中だった北京の一端に触れることができました。 (了)


    2015.12.21

    中国の有名ポータルサイトが主催する経済フォーラム開催【中国ニュース 2015年12月16日 】


    • (網易財経12月14日)2016年網易経済学家年会が12月14日、北京で開催された。フォーラムのテーマは「大国刷新、成長への再出発」、経済界のエリートが一堂に集い、中国経済の改革について討論を行った。


      「論壇ーー:解雇と展望」において、網易公司董事局主席兼主席執行官である丁磊氏は挨拶の中で、「網易経済学家年会は2010年に初回が開催され、これまでに6回の冬季年会、3回の夏のフォーラム、2回の香港フォーラムが開催してまいりました。毎年全世界の優れた経済学者と傑出したビジネスマンがここで自由に対話し、思想を分け合い、世界と中国にとって最も重要な経済の話題について論じてきました。ここで経済の成長、改革の深化を呼びかけ、ともに世界と中国経済の鼓動を感じましょう」と話した。


      2016年のグローバル経済への展望については、「この1年、グローバル経済には疲れが見え、各国の経済発展の前途の困難と挑戦が入り交じりました。同時に中国経済も新常態に入り、経済の速度を落とす過程にあります。政府上層部は積極的な改革思考を持ち、国有企業改革、産業のレベルアップ、金融改革などに着手しています。


      2016年は「十三次五か年計画」が始まる年です。これからの5年間でグローバル経済は低迷状態を脱し、成長へと再出発することでしょう。中国の経済改革はどのような挑戦と大きな変化に面するのでしょうか。中国経済はいかに現代的理性的な改革システムを打ち立てるのでしょうか。中国経済はまたどのように更なる前進を果たすべきなのでしょうか。このように大きな背景のもと、私たちは今年の年会を開催します。この年会では13のフォーラムを設け、経済の趨勢からイノベーション創業まで、国有企業改革から金融の新しい未来まで、不動産市場から資本市場まで、経済発展におけるさまざまな方面をカバーしており、フォーラムの期間には、ゲストの皆様が改革と成長という重要な命題について深く討論します」と語った。


      最後に丁氏は、イギリスの前首相であるゴードンブラウン氏、著名な経済学者である張五常氏、茅于軾氏、など90名余の参加者に感謝を表し、今回の網易経済学家年会の円満な成功を祝った。



      http://money.163.com/15/1214/09/BAPM7G6R002556Q4.html


    2015.12.16

    旧満州に15ヵ所あった日本国領事館 【蘇州たより 工藤和直】Vol.41 (読む時間:約5分)

  • 2015.12.15

    気鋭の30代エリート 美団の王興氏【中国ニュース 2015年12月11日 】


    • 美団(共同購入クーポンサイト)のCEOである王興氏は業界で「史上最もひどい連続創業者」と称されている。もともと人人網(SNS)の創始者であるが、上場して富を得るまで待つことができなかったし、中国大陸初の微博サイトの創始者ではあるが、新浪(sina)に機先を制されてしまった。何度負けてもへこたれず、再度新たなチャレンジをする。それこそが王興氏なのだ。


      王興氏は福建省出身で、いわゆる伝統的な「三好学生(人徳、勉学、身体に優れた学生)」だった。1997年には清華大学電子工学科無線電専攻に送り込まれ、卒業後には全額奨学金でアメリカのデラウェア大学に留学、修士を修めた。2004年には学業を中断して帰国し創業、校内網、海内網、飯否網、美団網など多くのサイトを作り上げた。


      振り返ってみると、彼はいつも創造者の役割を演じるばかりで、受益者になることはほとんどない。何度もの失敗から立ち上がり、立ち上がっては成長し、前に進み続ける。彼はいつも情熱に満ちている。


      創業して10年、王興氏はギーク精神でビジネスを変え、彼もまたビジネスによって変えられた。


      この10年、王興氏は常にもう1人の「王興」と融合しながら成長してきた。もう1人の「王興」はビジネスの世界で日々困難に立ち向かって得た経験と教訓でできている。王興氏と「王興」の融合を促すのは王興氏の強い学習能力である。


      王興氏クーポンサイト戦国時代に健康的な資金運用を提示することで、効率の高い管理と総合運営を提示してみせた。これはその時代においてもっともきれいなPRとなった。


      王興氏の性格はというと、勉強好きで世俗的ではなく、正攻法の人だ。


      美団の成功によって、王興氏も各種の微妙な関係に向き合うことになった。投資人、管理層、事業者と消費者への対応、スタッフへの激励、ライバルの洞察を行い、そして新しい知識を貯えて科学技術の発展がもたらす未知な要素に対応した。


      2015年10月8日、美団と大衆点評(店舗評価サイト)が共同声明で、正式に戦略的提携に至ったことを発表した。双方はすでに共同で新会社を設立している。この新会社は中国のO2O領域をリードするプラットホームになることだろう。新会社はCo-CEO(共同経営責任者)制度を実施しており、美団CEO王興氏と大衆点評CEO張濤氏が合同CEOと合同董事長を担任している。重大な決定の時には合同CEOと董事会で決定される。今では最終的に2人は異なる領域の事業を担当するようになり、王興氏がCEO、張濤氏が董事長となっている。


      将来に対して、王興氏は依然として好奇心と興奮に満ちている。「過去に拘泥せず、情熱のままに進む」というのが王興氏の変わらぬ姿勢だ。彼が見るに、創業というのは簡単なものではないが、辛いものでもない。例えば、ある人にとってはマラソンや重量挙げは非常に辛いことだが、ある人に取っては楽しさに満ちたことである。王興氏にとっての経営というのはそういうものなのだ。



      http://www.autotimes.com.cn/dealer/20151209/144693.html


    2015.12.11

    中国大手不動産仲介業社長「人を騙さなければ成功できる」【中国ニュース 2015年12月8日 】

  • 2015.12.08

    幻に終わった沙市(荊州)日本人租界地を訪ねて 【蘇州たより 工藤和直】Vol.40 (読む時間:約5分)

  • 2015.12.01

    新機種を発表した小米(シャオミー)の雷軍氏の想いとは【中国ニュース 2015年11月27日 】


    • 小米(シャオミー)の新機種「紅米Note3」の製品発表会が11月24日に行われた。その会場で小米の創業者である雷軍氏は「私の憧憬のすべて」というテーマでその気持ちを語った。以前もそうした内容を語ったことがあるが、それは2014年7月の小米4の発表会でのことだった。小米初の金属ボディーで様々な論議を呼んだが、それもだんだんと消えていき、今では出荷台数1500万台を越える勢いだ。


      紅米Note3もまた議論を呼んでいる。これまで指紋識別を取り入れてなかったのに今回は取り入れていることとか、低価格ラインの紅米はプラスチックボディーだとか、チップの生産を他人に任せていることとか、様々だ。携帯メーカーには世間も注目しており、非難も多いのだろう。雷軍氏の胸中の鬱積も知れるというものだ。小米はたったの5年で無名メーカーから国際的な携帯メーカーへと成長したこともあり、余計に外部の声は厳しい。


      曾国藩はかつて、「名が広まれば、誹謗もついてくる」と語った。ビジネスというものはウィンウィンでもあるし、勝つか負けるかの勝負でもある。成長市場であればともかく、限られた市場においては様々な争いが起こることも、避けられることではない。


      アリババ創業者の馬雲氏曰く、新しい事物に対して、人々は一般的に4つの段階を通る。見えない、見下す、みても分からない、追いつけない、だ。これが業界内の小米への対応を形容するものかもしれない。様々な論議の背後には「追いつけない」という気持ちがあるのかもしれないのだ。むろん、華為(ファーウェイ)、聯想(Lenovo)、魅族(Meizu)、一加(OnePlus)、どの企業も小米に学んでいるが、「見える」ことと「できる」ことは、また別のことなのである。


      紅米Note3を発表以前に見る機会があった。デザイン、スペック、金属ボディ、指紋識別、どれもよくできている。驚いたのはこれが899元、1099元という2つの価格帯であることだ。メディアは思い切った価格設定だといい、小米は「価格キラー」であると表現した。


      小米は「私の憧憬のすべて」という情に訴える講演を行い、「素晴らしいことが起ころうとしているということを永遠に信じ続ける」というセリフを用いるように外見的には優しさを感じるようなブランドだが、裏にはビジネスの戦場での「1千万人が私を阻止しても、進み続ける」という気概を隠している。


      いろいろなことを書かれているが、小米の本質は創業から今に至るまで一貫して『コストパフォーマンス」に集約されている。


      始めから小米は1元から1999元までの価格帯で製品を作ってきた。いい製品を作るということに励むと同時に、市場価格を一刀両断している。この点を捉えれば、小米はユニクロと似ているといえる。一方は国民的携帯で、一方は国民的ファッションだ。EC大手Tmallの11月11日のシングルズデーバーゲンで、様々な勢力が一進一退したが、小米とユニクロは変わらずトップの座を維持している。その背後にあるのは3つの文字「性価比(コストパフォーマンス)」だ。


      多くの評論家が言うように、小米の口コミは横ばい状態にある。だがそれはスマートフォン市場が成長市場から現状維持に変わっていることを示しているのだ。小米の成長スピードは確かに鈍っており、昨年のような成長は見込めないだろう。だが小米のタブレットもテレビも、ファームウェアも上昇傾向にある。


      どちらにせよ、紅米Note3を後の手に残し、11月11日に頂点を勝ち取ったことは、小米がやはりナンバーワンであるということを示している。


      雷軍氏は朱熹や王陽明を好み、そのやり方は曾国藩を彷彿とさせる。自律、勤勉、人間関係に長けていて、急がず、大望を抱き、時には厳しいやり方も用いる。そして雷軍氏も曾国藩も囲碁を好んでいる。


      苦戦して関を越えたが、周囲は寂しいばかり。曾国藩が太平天国軍の中心であった南京を落とし、その力は頂点にも近いという時、彼はこう書いた。「倚天照海花无数,高山流水心自知」。この言葉には世間がやかましくいろいろ言ってくるが、自分のことは自分が知っていればいいのだという気持ちが込められている。その当時、曾国藩の力は宮廷も恐れるほどだったが、人が何と言ってこようと彼は上に逆らうことはなかった。紅米の発表会で創業からの5年間を振り返った雷軍氏にもまた、そのような気持ちがあったのではないだろうか。



      http://zennew.baijia.baidu.com/article/243733


    2015.11.27
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