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2014.09.30
  • 人気キャスターが織りなす
    日中友好のラリー
  • 上海テレビ外国語放送局ICS首席主持人中日之橋アンカー
  • 呉 四海
2014年の5月、新たな「ピンポン外交」がスタートした︒発起人は上海外語チャンネルで17年にわたり日本語番組「中日之橋」を続けているキャスターでありアンカーでもある呉四海氏だ。その「新ピンポン外交」に込めた日中友好への想いを語っていただいた。
  • 上海電視台 上海外語頻道
  • 住所 / 上海市威海路298号上海視大厦16楼
  • TEL / (021)6256-5899   FAX / (021)6267-0816
  • URL / www.ICShanghai.com

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■卓球から学んだもの



呉四海氏は5歳の頃に卓球と出会い、小学校に進む頃には卓球の道に進むことを決めていた。しかしその夢は中学2年生のときに終わる。その頃の中国では中学2年生までにプロ予備軍として選ばれなければ、先はなかったのだ。選ばれなかった呉氏は中学3年生から卓球への情熱を勉学へと切り替え、上海の名門校、復旦大学に合格する。大学では再度卓球に触れ、上海市の大学生運動会卓球の部で男子ダブルスのチャンピオンになったこともある。
卓球からはたくさんのことを学んだという。人との付き合い方、そして人生の戦い方。努力と工夫次第で難局は乗り越えることができるのだということを卓球の試合が教えてくれた。「卓球という一芸が私の一生を助けてくれた」と呉氏は語る。

■「ラリー」が人と人とを結びつける



大学では日本語を専攻した。呉氏が語学を学ぶのはいつも「人」への興味からだ。
大学入学前、呉氏の周囲には日本製電化製品を始めとするたくさんの日本情報が入ってきた。それを目にした呉氏は「こんなすごい物を作るのはどういう人たちなのか」と興味を持ち、日本語を学ぶ決心をする。後に40歳で英語留学をしたときにも、人種や価値観が違う人々のことを知るために、英語を必死で学び、話しかけた。
呉氏は常々「ラリー」の必要性を説く。ラリーとは卓球で一番盛り上がる球の打ち合いのことをいうが、人間同士に必要なのもこのラリーだ。打って、打ち返す。意見や会話の往復があってこそ初めて、お互いを理解することができる。呉氏はいつもラリーによって人を理解するための努力を続けている。

■上海テレビ局へ売り込みをかけた大学生



呉氏は大学を卒業すると上海テレビ局(上海電視台)に就職する。その頃は卒業生の就職先を国が決める時代で、「就職」という言葉はなかった。にもかかわらず、その時代に呉氏は就職活動をしてのけたのだ。
呉氏にはテレビ局に入りたいという志望があった。その頃テレビに映る世界情報はアメリカのものばかりだった。自分が学んだ日本語を使えば、テレビの世界情報に広がりができる。そう考えた呉氏は独自に履歴書を作成し、直接テレビ局に乗り込んだ。
呉氏は上海電視台で「私を採用しなければ、おそらく20年間、私のような人間は採れないでしょう」と豪語し、面接を勝ち取る。面接会場にはちょうど読売テレビから研修に来ていた日本人も臨席し、呉氏の採用を推してくれた。2週間後、呉氏の上海電視台への就職が決まり、この行動は大学中の話題となった。
こうした行動を行う勇気は幼い頃の経験から生まれたものだ。4歳の頃、呉氏はマンションの2階から落ちて死にかけたことがある。その時に1度は死んだようなものだから、それ以上に怖いものはない。困難に出会った時、呉氏はいつもそう自己暗示をしているのだという。中国には「大難不死、必有後福」という言葉がある。大難で死を免れた経験があれば、後には必ず福があるという意味だ。4歳の頃の経験は、呉氏にたくさんの福を運んでくれた。

■日本でキャスターという新たな道を見出す



1984年、テレビ局に入社した呉氏はとにかく日本の情報を流そうと考えていた。初めに関わったのは中国全土で絶大な人気を得ることとなった山口百恵主演のドラマ「赤いシリーズ」。呉氏がこのドラマの素晴らしさを社長に伝え、番組の購入を勧めたのだという。
当時は日本との交流が頻繁に行われており、呉氏は訪れる日本のテレビ局からの視察者のアテンドも担当していた。1986年、呉氏はアテンドが切っ掛けで読売テレビの社長から日本留学に誘われ、その翌年から8年間を日本で暮らすこととなる。
日本では読売テレビの各部門で学び、また関西学院大学の社会学部で博士課程に所属した。この日本留学で呉氏はキャスターへの道を開く。読売テレビの人事部長が、呉氏のキャスターへの特性を見出してくれたのだ。文章、声、ルックス、どれをとってもキャスターとして適性があると人事部長は太鼓判を押してくれた。それをきっかけに呉氏は日本でキャスターとして活躍し始める。
1995年、上海万博に向けて国際都市を目指す上海で、英語放送がスタートした。しかし英語だけでは国際放送とは言い切れない。そこでちょうど日本でキャスターとして成長を始めた呉氏に白羽の矢が立った。呉氏は上海へ戻り日本語番組の準備を始める。

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